歴史

鳥取市

鳥取城すぐ近く太閤ヶ平!鳥取城を攻めるため秀吉が敷いた本陣跡へ【鳥取の旅】

太閤ヶ平(たいこうがなる)は羽柴秀吉が鳥取城を攻略するため陣を敷いた場所です。土塁や空堀で囲まれた本陣跡が残存し【鳥取城跡附太閤ヶ平】という名で国の史跡に指定されています。鳥取東照宮(樗谿神社)に登山口があります。鳥取城山上ノ丸からも行けます。いずれにせよ、かなりの距離を歩きます。
前橋市

群馬県民の内紛?!蚊帳の外の桐生市民が『前橋vs高崎』の歴史を振り返る【群馬の旅】

群馬出身の私は常々こう思っていました。高崎市は前橋市と比べて人口が多く、明らかに都会の雰囲気。新幹線通ってるし。何も知らない人が見たら群馬の中心は高崎市と思うはず。さて、それでは高崎市ではなく前橋市が県庁所在地である理由を、前橋城跡とこの問題に所縁のある場所と共に一緒に見ていきましょう。
下仁田町

なんで世界遺産なの?荒船風穴ってどんなとこ?【群馬の旅】

群馬県の『富岡製糸場と絹産業遺産群』が世界文化遺産に登録されました。富岡製糸場は有名ですが、絹産業遺産群の内容についてはあまり知られていないのではないでしょうか?藤岡市の高山社跡、伊勢崎市の田島弥平旧宅、そして荒船風穴。これら3か所も世界文化遺産の一部です。下仁田町にある荒船風穴に行ってきました。
熊本市

加藤清正公が築城した熊本城へ。隈本から熊本に改称した理由は?【熊本の旅】

肥後国誌に隈本の由来そして隈本から熊本に改称された理由が書かれています。少し長いですが引用します。肥後国誌でも俗説と断っているので本当のところどうだったのかはわかりません。『阝に畏れる』を縁起悪いと考えた理由は何となく理解できます。『熊』は強くて勇ましいという印象からでしょうか?
明石市

明石城へ!宮本武蔵由来の庭園と重文・坤櫓&巽櫓を見に行った【兵庫の旅】

1618年(元和4年)、小笠原忠真が徳川秀忠の指示を受け明石城の築城を開始しました。築城の目的は西国の諸大名を牽制するため。戦国の世が終わったとはいえ、まだまだ油断ならないと考えたのでしょう。苦労して明石城を築いた小笠原忠真ですが、1632年(寛永9年)に北九州の小倉に移封となってしまいます。
七尾市

日本五大山城に数えられる七尾城を散策してきたので紹介するよ!【石川の旅】

七尾城は石川県と富山県に跨る石動山の北端に築城された山城です。能登国の守護・畠山氏の居城として知られています。七尾という名前は主郭がある尾根から枝分かれする7つの尾根が由来とのこと。能登に訪問した京都・東福寺の彭叔守仙(ほうしゅくしゅせん)が独楽亭記という詩を詠み当時の七尾城の様子を伝えています。
大分市

鶴崎の歴史と乙津川の戦いを勝利に導いた妙林尼について【大分の旅】

大分市にある鶴崎城は大野川と乙津川に挟まれた中州に位置し、北側は別府湾に面する天然の要害に築かれました。古くから海上交易が盛んに行われ要所として発展。鎌倉時代から戦国時代末期までは豊後国の大名・大友氏によって支配されました。鶴崎の地は配下の吉岡氏に与えられ、鶴崎城が築城されたと云われています。
檜原村

後北条氏の檜原城跡と吉祥寺の十三仏巡りについて【東京の旅】

吉祥寺を登ると十三仏巡拝入口が見えてきます。十三佛信仰は古くからある日本独自の民間信仰です。人間は亡くなってから7日ごとに前世での罪を裁かれるそうです。裁判を担当する十三の仏をここでは参拝することが出来ます。十三佛信仰はそれぞれの日を担当する裁判官に故人が無事に成仏できるよう祈る儀式です。
港区

芝大門にある増上寺の歴史と徳川将軍家墓所の謎について調べてみた【東京の旅】

大門にある増上寺は小田原征伐後に関東へ入部した徳川家康が菩提寺と定めた浄土宗の寺院です。境内に徳川将軍家墓所があるのですが、何故か15代将軍全員のお墓はありません。何か理由はあるのだろうか?ということで今回は増上寺の歴史と菩提寺なのに将軍全員の墓がない理由について見ていくことにしましょう。
草津町

群馬で一番有名な観光スポット草津温泉!温泉情報や歴史について【群馬の旅】

草津温泉は白根山の火山活動により誕生した温泉で、6つの主力源泉から一分間に約30000ℓの温泉が湧き出ています。湧出量日本一は別府温泉なのか草津温泉なのか?湧出量は圧倒的に別府温泉が多いです。しかしそれは掘削やポンプを使っての話。草津温泉は自然に湧き出す温泉の量が日本一なのです。
松本市

国宝・松本城の歴史について!土砂降りの松本城をめぐる【長野の旅】

信玄が小笠原領に侵攻。信濃国守護・小笠原長時は林城・深志城を信玄に奪われ追放されてしまいます。深志城は武田氏の支配下に置かれ、林城は廃城となり、深志城が長野北部の重要拠点に。 武田氏が滅亡した後、信長は木曽義昌に深志城の城代を任じました。信長が本能寺の変で横死すると旧織田領地の奪い合いが始まります。
上田市

親子そろって徳川家康をビビらせた真田氏と上田城について【長野の旅】

信州真田氏は優秀な人間を多く輩出しています。真田氏の礎を築いた真田幸隆。武田信玄に仕え武田二十四将の一人に数えられました。幸隆の長男・信綱と次男・昌輝は武勇に優れ信玄に高く評価されていたと伝わります。信綱は兎に角戦が強く前線で活躍しましたが、長篠の戦いで討ち死にしてしまいました。
東吾妻町

真田幸村のお爺さん・幸隆が城主だった天然要害・岩櫃城跡へ!【群馬の旅】

岩櫃城の築城者および築城年はわかっていません。一説によると1400年くらいに越前国(福井県)からやってきた斎藤憲行という人物が築城したと云われています。斎藤氏は上杉謙信の後ろ盾を得て、吾妻一帯を掌握するほどの力を付けました。しかし1560年代に上野侵攻を目論む武田信玄に目を付けられてしまいます。
みなかみ町

名胡桃城事件とは?『豊臣vs後北条』小田原征伐のきっかけはここにあった!【群馬の旅】

名胡桃城は築城から約10年で廃城になってしまった短命な城ですが、その歴史は濃いです。と言うのも、戦国時代を語るに外せない大戦の引き金になった事件がこの城で起きているからです。さて、名胡桃城で何があったのか?歴史を振り返ってみましょう。
鹿児島市

薩摩島津氏が築城した鹿児島城へ行ってきた!その歴史を簡単に紹介する【鹿児島の旅】

薩摩島津氏の初代は平安時代後期から鎌倉時代に活躍した惟宗忠久という人物です。忠久は源頼朝から南九州の島津荘の下司職に任じられます。その土地の名前から代々島津氏を名乗るようになりました。『中世島津氏研究の最前線』によると鎌倉期の島津本宗家は鹿児島県出水市の木牟礼城を拠点にしたと書かれています。