名胡桃城事件とは?『豊臣vs後北条』小田原征伐のきっかけはここにあった!【群馬の旅】

名胡桃城

名胡桃城は築城から約10年で廃城になってしまった短命な城ですが、その歴史は濃いです。

と言うのも、戦国時代を語るに外せない大戦の引き金になった事件がこの城で起きているからです。

さて、名胡桃城で何があったのか?

歴史を振り返ってみましょう。

いちのまる
いちのまる

写真は2015年(平成27)に訪れたときのものです。

当時、保存整備をしていたため城址に入ることが出来ませんでした。

また訪問したら写真を更新します。

 

名胡桃城の場所

名胡桃城

国道17号線沿いにあるので迷うことはないでしょう。

高速道路を利用するなら月夜野ICが最寄りです。

公共交通機関を使うならJR上越新幹線・上毛高原駅、JR上越線・後閑駅が近いです。

駅から歩いて行けないこともないですが、1時間程かかります。

 

名胡桃城の歴史

名胡桃城

利根・沼田地方は鎌倉時代から室町時代に掛けて沼田氏の一族が支配していました。

沼田氏の出自については諸説があり正確なことはわかっていません。

沼田氏の分家が名胡桃の地を与えられ名胡桃氏と名乗りました。

発掘調査により般若曲輪から古い館跡が見つかり、これが名胡桃氏の居館だと推定されています。

上野の国は武蔵の後北条、越後の上杉、甲斐の武田などの強豪に囲まれていたため恒常的に合戦が繰り広げられていました。

利根・沼田地方も例外ではなく支配権は『沼田氏→後北条氏→上杉氏→後北条氏』と移り変わります。

1579年(天正7)、武田氏の上野攻めの一環で真田昌幸が名胡桃城を攻略します。

そして後北条氏の守る沼田城攻めの前線基地として名胡桃城を築きました。

小川の城利根川を限り東都川田大手不動澤限り領地三ヶ二の處、北條へ被付、名胡桃の城より利根北郡黑岩を限り吾妻郡三ヶ一の處眞田へ附、右小田原へ被付ける。三ヶ二の替地は家康様より御領分信州伊奈郡を眞田へ被進、北條と眞田和睦相整、

加沢記 秀吉公御扱を以て北條殿と昌幸公和談附所々城代之事より

小川城利根川を限り東都川田大手不動澤限り領地の三分の二のところを後北条氏に与えられる。名胡桃城より利根北郡黒岩を限り吾妻郡三分の一のところを真田氏に与えた。右を小田原に伝えられる。

三分の二の替地は徳川家康様より信州伊奈郡を真田氏に差し上げた。後北条氏と真田氏の和睦は整った。

戦国の世が豊臣秀吉によって統一される寸前のお話です。

後北条氏と真田氏の間を秀吉が仲介して利根・沼田領の分割を決めています。

 

名胡桃城事件について

敏達天皇の末孫小野姓猪俣氏能登守憲直、近年氏邦の幕下に属して邦憲と名乗ける、所願相叶ける故か秀吉公上意に依て沼田の城主請取居住しけるが、

天正十六年十一月二十二日、中山安藝守が二男中山九兵衛尉は姉聟鈴木主水に介抱を請け名胡桃の城に居たりける。智慧才能の者なりければ鈴木心安くしたりける。

猪俣が家の子、竹内孫八左衛門と云者知人也ければ彼を以て九兵衛をたばかり申けるは、貴方は中山の城主也けるが近年浪人し給ひてかく浅間敷風情也、何卒たばかり名胡桃の城主鈴木を討給ひて小田原へ忠信し給へかし、

左有んに於ては本領中山は不及申、名胡桃小川迄領地無疑と細々と申ければ尤と領承して上田よりの飛脚を仕立、昌幸公の御判を以て今度伊奈郡御普請に付城取のよし御相談有之間、其城は中山九兵衛に預置早々可參之由書狀を認め鈴木に爲見ければ、鈴木は世の人に替り萬事念入たる侍也けるが運や盡たりけん、

此狀尤とて十月二十二日名胡桃を出て岩櫃に來て此由賴綱へ申ければ矢澤手を打給ひて夫はたばかられたりける、貴方を召事ならば我等に御下知有ん、猪俣仕組たるべし加勢を召連歸城し給へと被申ければ鈴木失面目候とて、加勢留澤大學、同豊前、唐澤玄蕃、割田下總、同權四郎、持田久太夫、一場茂右衛門、伊與久、中澤、高山等百餘騎にて名胡桃に歸りける。

加沢記 猪俣名胡桃城責捕事附中山九兵衛心替之事より

いちのまる
いちのまる

長い引用すみません。

↓に何となく訳してみました。

かなり適当なので、適当に流し読みして下さい。

敏達天皇の末孫・小野姓・猪俣憲直、近年北条氏邦の幕下に属して邦憲と名乗った。
願いが叶ったのか秀吉公の上意に依って沼田城主になり居住したが、
天正16年11月22日(1588)、中山安芸守の二男である中山九兵衛は姉婿の鈴木主水の世話を受け名胡桃城にいた。
智慧才能のある者だったので鈴木は安心していた。
猪俣家の子に竹内孫八左衛門という者が知り合いだったので、彼を使って九兵衛を騙すように言った。
貴方は城主ですけど近頃浪人になったため見っともなく見えます、どうか謀って名胡桃の城主・鈴木を討ってもらい小田原(後北条氏)に忠誠を誓って下さい。
そうすれば本領の中山は申すに及ばず、名胡桃、小川迄の領地は疑わないと申せば、尤もと了承し上田より飛脚を仕立上げ、真田昌幸公の御判をもって伊奈郡御普請での付城について会議の間、その城は中山九兵衛に預け早々に参加の由の書状を鈴木に見せれば、鈴木は世の人に替わり万事に念を入れる侍だったが運が尽きてしまった…、
この書状は尤もだと10月22日に名胡桃を出て岩櫃に来て矢沢頼綱にこのことを伝えると、矢沢は手を打ってそれは騙されている、貴方を呼び出したのに我等に命令が無い、猪俣の企みだと加勢を連れ帰城しなさいと申せば、鈴木は面目を失って、加勢・加勢留澤大学、同豊前、唐澤玄蕃、割田下総、同權四郎、持田久太夫、一場茂右衛門、伊興久、中澤、高山等、百余騎にて名胡桃に帰った。

ざっくり言えば後北条家臣・猪俣邦憲(沼田城主)が真田家臣・鈴木重則(名胡桃城事件)を騙して名胡桃城を奪ったという事件です。

これを知った真田昌幸はすぐに豊臣秀吉に報告。秀吉は北条氏直を詰問しましたが、良い返答は得られませんでした。

これを期に秀吉は後北条氏に宣戦布告。

そして1590年、小田原征伐が始まります。

結果、関東で栄華を誇った後北条氏は没落。

後北条氏が去った後、関東の広大な領地は徳川家康の支配下に置かれることになります。

後北条当主の氏直は秀吉に赦され、僅かながらの領地を得ますが、若くして亡くなっています。
従兄弟の北条氏盛が氏直の跡を継ぎ河内狭山藩の初代藩主となり、明治維新まで存続させました。

 

終わりに

名胡桃城

小田原征伐は秀吉の陰謀によって起きた合戦だったという説もあるようです。

いちのまる
いちのまる

名胡桃城事件は大義名分を得るための策略だったのかもしれません。

表裏比興の者と名高い真田昌幸の領地で起こった事件。

訝しいったらありゃしない…。

おしまい!

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