歴史

佐賀市

江藤新平と生誕地と墓へ参拝。彼の人生と佐賀の乱について紹介しようと思う【佐賀の旅】

江藤新平は幕末から明治初期に活躍した佐賀県出身の政治家です。佐賀藩の七名の偉人『佐賀の七賢人』、明治政府に貢献した『維新の十傑』の一人に選ばれています。征韓論を巡る政争の結果起きたとされる明治六年政変で下野したのち、佐賀県に帰省し佐賀の乱のリーダーの一人として新政府軍と戦います。
今治市

村上海賊の城、能島城跡をカレイ山展望公園から眺める【愛媛の旅】

今治市宮窪町の沖に浮かぶ能島、鯛崎島。村上水軍の頭領である能島村上氏は能島城を築城し居城としました。能島村上氏が史料上に登場した時期と発掘された遺物の時期が一致したことから14世紀後半頃には居城があったと推測されています。この島から戦国時代に大活躍した村上海賊の頭領・村上武吉が出現しました。
今治市

島がまるまる城跡?!村上水軍が治めた来島城跡に行ってきた!【愛媛の旅】

来島城は瀬戸内海で名を馳せた村上海賊の一族が治めた城です。城主の来島村上氏については過去の記事で触れていますので下記のリンクを参考にしてください。今回はちょっと筆を休めて写真メインの記事でお送り致します。波止浜港から来島行の定期船が出ています。港から5分くらいどんぶらこすれば来島に到着です。
玖珠町

水軍で有名な来島村上氏が治めた豊後森藩の名残、旧久留島氏庭園を歩く【大分の旅】

旧久留島氏庭園は江戸時代に豊後国(大分県)の『速水、玖珠、日田』を領した森藩の藩庁があった場所です。藩主は来島氏。戦国時代に瀬戸内海で活躍した村上水軍の一族であります。1601年に入封し明治維新まで森藩を治めました。今回は旧久留島氏庭園の風景と来島・久留島氏の歴史について書きます。
中津市

日本三大水城の一角・中津城へ!黒田官兵衛と城の歴史について【大分の旅】

中津城は豊臣秀吉の名参謀・黒田官兵衛(如水)が1588年に築城を開始し、そのあと入封した細川氏が拡張完成させた城郭です。現在の天守は摸擬建築で『天守は無かったのではないか?』といわれています。海水を引き込んだ堀を持つ中津城は日本三大水城の一つに数えられています。
鹿児島市

西郷隆盛に最も信頼された漢?寡黙の少将・篠原国幹について【鹿児島の旅】

篠原国幹は薩摩藩の武士、及び陸軍軍人です。戊辰戦争では薩摩藩三番小隊長として鳥羽伏見の戦い、上野戦争、奥羽征伐を転戦。その功績により陸軍大尉、次いで陸軍少将に任命されます。西郷隆盛が参議を辞職した際、篠原もそれに追随、西南戦争で一番大隊大隊長となり奮戦するも吉次峠で銃弾を受け戦死してしまいました。
鹿児島市

晋どん、もうここらでよか…。激動を生きた別府晋介の人生について【鹿児島の旅】

別府晋介は西南戦争の最終盤で西郷隆盛の介錯をした人物として有名です。彼は1847年に鹿児島県吉野村に生を受け、1877年に鹿児島県の城山で亡くなりました。今回、別府晋介誕生地と埋葬地の南洲墓地に行ってきました。1934年6月28日に発行された【近世名将言行録】を引用しつつ別府晋介の生涯を紹介します。
鹿児島市

桐野利秋誕生地と彼の墓地へ!人斬りと呼ばれた彼の人生について【鹿児島の旅】

西郷隆盛洞窟 案内板より引用 世に、桐野利秋ほど毀誉褒貶の定かならぬ人物も、また珍しい。 東郷 隆 著 九重の雲 第一章 唐芋侍より 桐野利秋が主人公の歴史小説【九重の雲】の冒頭。 毀誉褒貶と言うけれど、悪いイメージを持っている人の方が多い...
鹿児島市

村田新八誕生之地へ!『村田新八 西郷と大久保 二人に愛された男』を読んで【鹿児島の旅】

村田新八は幕末から明治初期に活躍した薩摩藩出身の政治家です。1877年に起きた西南戦争で西郷隆盛率いる薩軍・第二大隊大隊長として奮戦するも次第に追い詰められ、鹿児島の城山で西郷たちと共に命を落とします。【西郷と大久保 二人に愛された男 村田新八】を参考にしてその人生を振り返っていきます。
岡崎市

徳川家康の生誕地、岡崎城へ!しかみ像と脱糞伝説について【愛知の旅】

岡崎城は前身は室町時代に三河国の守護代・西郷稠頼と頼嗣によって築城された龍燈山城だと伝わります。そして頼嗣の息子である信貞の代に徳川家康の祖父・松平清康がここを奪い取りました。松平清康は三河松平氏の七代目当主です。世良田次郎三郎とも名乗りました。
山都町

布田保之助が命を懸けて完成させた通潤橋の歴史について【熊本の旅】

通潤橋は江戸時代後期に用水確保を目的として築造された石橋です。白糸村(現・山都町)には緑川という大きな河川が流れています。しかし川は深い谷の底を流れていたため用水の確保に大変苦労したそうです。そこで惣庄屋の布田保之助(惟暉)は用水橋を架け谷の対岸から水を導こうと考えたのでした。
美里町

重要文化財の霊台橋を歩く。名前に霊が付いてますけど怖い意味はありません!【熊本の旅】

1845年、惣庄屋に就任した篠原善兵衛が石橋の架橋を計画します。施工者は大工棟梁の伴七、種山村の石工である卯助、その兄弟の宇市、丈八。地元の民衆です。工事は1846年に開始され6~7ヶ月後、翌年の1847年に落成、渡初が行われました。梅雨や台風を避けるためかなり急ピッチで作業が行われたそうです。
久山町

立花山城の歴史について!立花道雪と誾千代の居城を登る【福岡の旅】

立花山城は福岡市、新宮町、久山町に跨る立花山に築かれた山城です。鎌倉時代或いは南北朝時代、豊後大友氏の立花貞載が博多を支配するために築城したと伝わります。戦国時代に入ると立花鑑載が主家の大友宗麟を裏切り毛利元就に従ったため、宗麟は立花山城に戸次鑑連(道雪)と吉弘鎮信を派遣し、これを滅ぼします。
平群町

信貴山城の歴史について!戦国の世を震撼させた梟雄・松永久秀の終焉の地を歩く【奈良の旅】

信貴山城は信貴山の雄嶽を中心として東西550m、南北700mに広がる大規模な中世山城です。郭は120以上もあったとされています。戦国時代を震撼させた戦国三大梟雄の一人に数えられる松永久秀の居城であり、織田信長に追い詰められた久秀が茶器・古天明平蜘蛛を抱いて爆死したという逸話が残る場所でもあります。
柳川市

返り咲きの名将軍!立花宗茂の居城、柳川城跡を眺める【福岡の旅】

柳川城は1558年から1569年の間に蒲池鑑盛が本格的な城郭として整備したと伝わっています。城内や城下町に水堀を張り巡らし難攻不落の要害を作り上げました。その水堀は現在の柳川市の至る所に残っており柳川観光名物の川下り船が流れています。今回は柳川城の様子と歴史を紹介します。