加藤清正公が築城した熊本城へ。隈本から熊本に改称した理由は?【熊本の旅】

熊本城

熊本のシンボル・熊本城へ!

築城名人の加藤清正が普請した城として知られ、日本三名城のひとつに数えられています。

1877年(明治10)に起きた西南戦争で主戦場になった熊本城は天守や御殿を始めとした建造物が破壊されてしまいましたが、戦禍を免れた建物もあり11棟の櫓、1棟の門、長塀が1ヶ所、計13件の建物が国の重要文化財に指定されました。

 

熊本城

多くの重要文化財を維持していた熊本城でしたが、2016年4月14日に発生した熊本地震によって多大な被害を受け、幾つかの重要文化財建造物が倒壊してしまいました。

現在進行形(2019年当時)で復旧作業を行っている状態にあります。

いちのまる
いちのまる

2018年(平成30)6月3日、復興中の熊本城を見に行ってきました。

今回は熊本城の歴史を紹介すると共に復旧作業中の熊本城の様子をお送り致します。

熊本城へのアクセス

熊本城

熊本の中心地ですので様々な交通手段があります。

熊本城のHPに情報が網羅されていますのでそちらをご覧ください。

下記リンクから公式HPに飛べます。

【『熊本城』公式ホームページ 交通アクセス】

 

熊本城の歴史

熊本城

まずは熊本城の前身である肥後千葉城と隈本城について調べました。

隈本ノ城ニ菊池ノ一族出田秀信ト云者八十町ヲ領シテ始テ在城ス其地ヲ千葉城ト云大永享祿ノ比鹿子木三河守藤原親員入道寂心飽田郡山本郡ノ内五百六十町ヲ領シテ在城トス雖モ城郭狭小ナル故城ヲ攺メ築ク今云古城ナリ

肥後國誌 卷之貳 熊本府より引用

隈本の城に菊池氏の一族である出田秀信という者が80町を領して始めて在城する。
その地を千葉城という。
大永・永禄(1521年~1532年)のころ鹿子木親員(寂心)が飽田郡、山本郡のうち560町を領して在城したが、手狭だったため、改めて築いた。
今いう古城のことである。

 

熊本城

出田秀信は15世紀後半の武将だとされています。

築城時期はその頃ということになりますね。

鹿子木親員は菊池氏、後に豊後大友氏に仕えた武将です。

引用文末尾の『今云古城ナリ』は隈本城を指しています。

千葉城は現在の千葉城公園の辺り、隈本城は古城堀端公園付近にありました。

 

加藤清正の入城

熊本城

肥後国誌によると鹿子木親員のあとに豊後国・大友氏の家臣である城親冬が入城。

その後、城親冬の嫡男・親賢が跡を継ぎ、息子・久基の代に豊臣秀吉による九州征伐(1586~1587)が始まります。

城久基は紆余曲折あって薩摩国の島津氏に属していましたが、九州征伐では豊臣秀吉の味方に付き隈本城を開城し、秀吉を迎え入れています。

 

熊本城

佐佐陸奥守成政伏誅ノ後加藤肥後守淸正侯ノ領トナリ慶長ノ始メ古府中ノ寺院商家等ヲ引移シ國府ト成スト見エタリ

肥後國誌 卷之貳 熊本府より引用

九州が平定された後、佐々成政が隈本城に入りましたが、肥後の国衆が成政に反発し一揆を起こしてしまいます。

成政は自力で一揆を鎮めることが出来ず、各地からの援軍により鎮圧されました。

豊臣秀吉は佐々成政の失態に激怒。

成政は幽閉された後、切腹しています。

 

熊本城

そして、加藤清正が隈本にやってきます。

清正は豊臣秀吉の子飼い家臣で多くの合戦で活躍した名将です。

戦上手なだけではなく、城造りや治水・土木事業の達人としても知られています。

熊本で加藤清正が『清正公(せいしょうこう)』と呼ばれ神格化されている理由は公共事業発展の功績があったからでしょう。

加藤清正の三男・忠広が改易になり出羽庄内藩にお預けの身になると、細川氏が豊前国小倉藩から熊本藩に入り、細川氏が明治期の廃藩置県まで熊本藩を治めています。

 

隈本の由来と熊本に改称した理由について

熊本城

肥後国誌に隈本の由来そして隈本から熊本に改称された理由が書かれています。

少し長いですが引用します。

熊本舊隈本ト號ス俗説ニ 後三條院御宇延久二年菊池家ノ祖則隆當國菊池郡ニ下向翌年八月合志郡鞍嶽觀音ヲ信仰シ登山アリシニ折柄夕霽紫翠ヲ含ミ天色彩ルカ如ク隈アリテ其隈トル處色濃ク見ヘシ故隈本ト稱シ菊池郡ハ其程近キ故隈ヲサマリテ色薄ク見ヘシ故隈府ト稱セシト云慶長四年加藤侯築城ノ時(慶長四年ハ六年の誤歟)一國ノ府タル所故阝ニ畏ルト云文字ヲ忌テ熊本ト攺メ稱スヘキ旨國中ニ觸示セレシト云

肥後國誌 卷之貳 熊本府より引用

熊本を隈本と称した俗説に、後三条天皇の時代・延久二年(1070年)、菊池氏の祖先則隆が当国菊池郡に下向し、翌年八月に合志郡の鞍嶽観音を信仰し登山したそのとき、夕晴れで紫翠を含んだ天の色を彩るように隈(薄い色と濃い色が接する場所)があった。
その隈どるところが濃く見えたところを隈本と称し、菊池郡はその近くにあり隈が収まって色が薄く見えたことから隈府と称したという。
慶長四年、加藤清正公が熊本城を築城したとき(慶長四年は六年の誤り)、一国の中心である場所なのに『阝に畏れる』という文字は縁起悪いと熊本と改め称すべき旨を国中にお触れ出せといった。

肥後国誌でも俗説と断っているので本当のところどうだったのかはわかりません。

『阝に畏れる』を縁起悪いと考えた理由は何となく理解できます。

『熊』は強くて勇ましいという印象からでしょうか?

いちのまる
いちのまる

そういえば古代日本で大和朝廷に反抗した熊襲(くまそ)は九州の人々ですね。
まぁ、これは関係ないな。

神風連の乱と西南戦争

熊本城

熊本城は明治時代に入ってから二度の戦禍に巻き込まれます。

一つ目は1876年(明治9年)の神風連の乱。

元肥後(熊本)藩士の太田黒伴雄、加屋霽堅たちが起こした反乱です。

当ブログで神風連の乱について書いていますので詳しくは↓のリンクをご覧ください。

二つ目は1877年(明治10年)の西南戦争。

西郷隆盛が率いた薩摩軍と明治政府の戦いです。

熊本鎮台司令長官の谷干城が熊本城に籠城して薩軍の攻撃を防いでいます。

加藤清正が築いた熊本城は数百年後の明治時代になって堅城っぷりを発揮したのです。

もしも、あの世が存在するならば…。

清正公はきっと満足なさっていることでしょう。

 

終わりに

熊本城

簡潔にでは御座いましたが、熊本城の歴史についてお送りしました。

写真は復興中の天守です。

熊本城の公式HPに復興募金について書かれているのでご興味のある方は見てください。

おしまい!

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