芝大門にある増上寺は小田原征伐後に関東へ入部した徳川家康が菩提寺と定めた浄土宗の寺院です。
境内に徳川将軍家墓所があるのですが、何故か15代将軍全員のお墓はありません。
何か理由はあるのだろうか?
ということで今回は増上寺の歴史と菩提寺なのに将軍全員の墓がない理由について見ていくことにしましょう。
増上寺へのアクセス
自動車ですと首都高の芝公園ランプ出口を右折、そして芝公園グランド前の信号を左折し左側を見ていると増上寺があります。
下道から向かう場合は↓のマップを参照にどうぞ。
最寄駅は都営三田線・芝公園駅か御成門駅です。
増上寺の歴史
1393年、増上寺は酉誉聖聰上人(ゆうよしょうそうしょうにん)によって創建されました。
もともとは別の場所にあって名前も違いました。
酉誉聖聰上人が真言宗から浄土宗に改宗した際に現在の名前に変えられたとされています。
移設されたのは江戸時代に入ってからです。
江戸時代には徳川将軍家の手厚い保護を受け浄土宗の学び場として常時3000人の僧侶が修学に励む寺院になりました。
明治時代に入ると大火事が起き本堂が消失。
他の建物も太平洋戦争の戦火で殆ど燃え尽きてしまいました。
戦後の復興で寺院が再建され今に至ります。
境内に点在する石碑などについて紹介したいですが、今回のメインは徳川将軍家墓所なので割愛します。
徳川将軍家墓所
それでは増上寺にある将軍の墓を見ていきましょう!
【拝観料】大人500円 高校生以下無料
【定休日】毎週火曜日(祝日は拝観可)
二代将軍・徳川秀忠と正室・お江の方の墓
徳川家康の三男。1579年生まれ、1632年没。
関ヶ原の戦いで信州上田城の真田昌幸、幸村親子にてこずって遅刻して家康に怒られた人。家康が生きている間は家康の意に沿って仕事をしましたが、家康死後は自らの意志で政治を行いました。
お江の方は浅井長政とお市の方(織田信長の妹)の娘です。
姉に淀殿(豊臣秀頼の母)、初(京極高次の正室)がいます。
みんな繋がってます。
六代将軍・徳川家宣(いえのぶ)の墓
三代将軍・徳川家光の孫。1662年生まれ、1712年没。
正直いって何をした人か知りませんでした。
将軍在職は3年間。宝永通宝、酒税の廃止。
そして前将軍綱吉が残した生類憐みの令を徐々に廃止していきました。
新井白石を雇った人。
七代将軍・徳川家継の墓
六代将軍・徳川家宣の四男。1709年生まれ、1716年没。
七歳に満たず亡くなっています。
政治は父、家宣の重臣・新井白石、間部詮房(まなべあきふさ)によって行われました。
九代将軍・徳川家重の墓
八代将軍・徳川吉宗の長男。1712年生まれ、1761年没。
虚弱体質であり、また脳の障害により言語不明瞭であったといわれています。
吉宗は跡を継がせるかどうか悩みましたが、家重の長男の徳川家治(十代将軍)が優秀だったため後々のことを考え選ばれました。
『実は女性だったのでは?』という説もあります。
墓から出された頭蓋骨、骨盤が女性の形に近かったらしいです。
歴代将軍はあぐらの状態で遺骸が収められていたが家重だけは正座だった(女性埋葬)。
言語不明瞭で側近の一人しか家重の言葉を聞き取れず、将軍の声を聞いたものが少なかった。
女性だったから表に出せなかったのでは?
徳川ミステリーですね。
十二代将軍徳川家慶の墓
十一代将軍・徳川家斉の次男。1793年生まれ、1853年没。
ペリーが黒船で浦賀湾沖に現れた年に亡くなっています。
人事才能はあったようです。
あと生姜が大好きです。
十四代将軍・徳川家茂(いえもち)の墓
1846年生まれ、1866年没。20歳の若さで亡くなっています。
大の甘党。ほとんどの歯が虫歯でやられていたそうです。
そしてかなりいい人。もっと長生きしていれば(もしくは時代が違えば)立派な将軍になれたかもしれない。
激動の時代を生きた将軍。
徳川十四代・将軍家茂正室の和宮の墓
悲運の皇女・和宮。
静寛院宮(せいかんいんのみや)は家茂死後に名乗った名前です。
生まれは1846年、死没は1877年。第120代天皇・仁孝天皇(にんこうてんのう)の第八皇女です。
6歳の時に有栖川宮家の熾仁新王と婚約しましたが、14歳になり輿入れという段階で朝廷と幕府の政治の渦に巻き込まれ徳川家茂と政略結婚をさせられることになります。和宮は抵抗しますが周りの圧力が余りに強すぎて折れます。
今までの暮らしとは全く違うものでかなり苦労したようです。天璋院(篤姫)などとも最初はうまくいきませんでした。
和宮が悲運の皇女といわれる理由はこれだけではありません。
なんと降嫁してすぐに徳川家茂が亡くなってしまいます。
家茂は側室をもたず和宮の心を開く努力をし、お互いかなりの信頼関係を築いていました。和宮は自分の居場所、そして最愛の人を得ましたが4年間の短い2人の生活はあっけなく終わってしまいます。
御存じのとおり徳川幕府は次の十五代将軍・徳川慶喜で終焉を迎えます。
大政奉還が行われる前に和宮は朝廷から『帰ってきなさい』といった内容の手紙をもらいますが、和宮は徳川に残ることに決めます。
1868年に幕府軍と薩長軍が鳥羽伏見の戦いで衝突。
和宮は朝廷に徳川家を取り潰さないでと手紙を送りますが相手にされません。
薩長軍は容赦なくガンガン攻めてきます。しかし和宮は逃げることなく手紙を送り続けます。
そして一度江戸にかなり近くなったところで薩長軍は進軍を止めました。皮肉にも敵方の総司令官はかつての婚約者、有栖川宮家の熾仁新王でした。
そのころ天璋院(篤姫)も薩長軍総大将の西郷隆盛に手紙を出しそれらの働きから西郷隆盛と勝海舟が会談し江戸の町、江戸城は守られました。これが有名な江戸無血開城です。
その後、明治10年に32歳の若さで和宮は亡くなりました。
以上が増上寺にある徳川将軍家墓所に眠る方々です。
他の将軍のお墓は?
増上寺意外に3つ徳川将軍家の墓所があります。
・寛永寺
・谷中霊園
日光東照宮には遺言で『私は神になって関東を守る!』といった徳川家康とそんな家康おじいちゃんを崇拝していた三代将軍・家光が眠っています。
4、5、8、10、11、13代目の将軍は上野・寛永寺に葬られています。
何故、増上寺ではないのか?
お墓が分けられている理由
ここでキーマンとなる人物が二人。
徳川家光と南光坊天海という僧侶です。
天海は何かと謎多き人物ですが家康、秀忠、家光の三代に仕え厚い信頼を受けました。
彼は1624年に寛永寺を開山します。どのような経緯があったのかわかりませんが、家光は自身の葬儀を菩提寺の増上寺ではなく寛永寺で行わせました。
この流れで4、5代将軍は寛永寺に葬られることになります。こうして徳川将軍家の菩提寺が2つになってしまいました。
これを黙って見ていられない増上寺。『初代の家康が我々の寺を菩提寺と定めたのに酷い話じゃないか?!』と反発。
ごもっともですね!
そこで出された案が『将軍が亡くなったら交代で弔おう!』です。
こうして徳川将軍家の葬儀は両寺交代で行われることになりました。
終わりに
もう一人忘れてはいけません。激動の時代を生きた十五代・徳川慶喜です。
彼は上野の谷中霊園に埋葬されています。
彼の代で徳川江戸幕府が終わりを迎え明治時代に入ります。『将軍としてこの世を去れなかったから増上寺、寛永寺に埋葬されなかった。』と言う人もいるようですが、ちょっと違います。
谷中霊園内には寛永寺エリアがあり、そこに慶喜は眠っています。なので寛永寺に埋葬されていると同義になります。
では何故ほかの将軍と一緒ではないのか?
それは朝敵になったのにも拘わらず明治天皇に赦され、更に公爵の位までいただいたことに感謝し遺言で『仏式ではなく神式で葬ってくれ。』というようなことを慶喜が言ったためです。
従来の将軍の墓は仏葬なので墓は仏塔です。
しかし慶喜は神道。これでは同じところに埋葬できませんね。
まぁ、『徳川将軍墓所に埋めてくれ!』といったら明治政府が黙っていなかったのかもしれません。慶喜は頭の切れる人だったでしょうから余計な問題を残さないよう遺言にしたためた可能性もあります。
おしまい!