真田幸村のお爺さん・幸隆が城主だった天然要害・岩櫃城跡へ!【群馬の旅】

岩櫃城

群馬県吾妻郡にある信州・真田氏ゆかりの岩櫃城跡行ってきました。

岩櫃城は割と迷いやすい難しい場所にあります。

初めは『岩櫃ふれあいの郷』を目指し、そこからはナビを頼りましょう。

『群馬県吾妻郡東吾妻町原町4392』で調べれば行けるはず。

本丸跡まで15分から20分くらい登山道を歩きますので飲み物をお忘れなく。

登山道といってもそこまで急峻ではありません。

ただしクマが出没するのでラジオや鈴を携帯して向かいましょう。

 

岩櫃城の歴史

岩櫃城

岩櫃城の築城者および築城年はわかっていません。

一説によると1400年くらいに越前国(福井県)からやってきた斎藤憲行という人物が築城したと云われています。

斎藤氏は上杉謙信の後ろ盾を得て、吾妻一帯を掌握するほどの力を付けました。

しかし1560年代に上野侵攻を目論む武田信玄に目を付けられてしまいます。

 

岩櫃城

吾妻郡内の豪族・羽尾氏と鎌原氏の領地争いが勃発したとき、岩櫃城主の斎藤氏は羽尾氏の援護をしています。

このとき、武田配下の真田幸隆が両者の仲介に入っていました。

信玄や幸隆はこれをチャンスと捉え、斎藤・羽尾氏が鎌原氏の城を攻略したことをきっかけに大義名分を得、攻勢に出ます。

 

岩櫃城

信玄は幸隆に岩櫃城を攻めるよう命じます。

しかし天然要塞の岩櫃城はそう簡単に落とせません。

そこで幸隆は内部から崩壊させるべく策を凝らしました。

まず、斎藤氏と和議を結び時間を稼ぎます。停戦中に敵の家臣に調略を仕掛け内応(裏切り)の約束を取り付けます。

すると、あれだけ堅固だった岩櫃城内は大混乱に陥り簡単に落城しています。

その後、斎藤氏は上杉氏を頼りに戦いますが、真田氏に敗れて滅亡してしまいました。

こうして斎藤氏に変わって真田氏が岩櫃城を中心として吾妻を支配していくことになります。

 

岩櫃城

武田信玄、真田幸隆が亡くなった後、武田・真田両氏は時代の大きな渦に飲まれていきます。

1575年の長篠の戦いで武田勝頼(信玄の息子)は織田、徳川軍に完膚なきまで打ちのめされ多くの重臣や兵を失います。

なんとか再起しようと勝頼は新府城(山梨県)を築城し守りを固めますが、味方の裏切りと織田、徳川軍の猛攻に耐えきれず人質もろとも新府城を燃やして逃走しました。

 

岩櫃城

この時、真田昌幸(幸隆の息子)は勝頼を岩櫃城に匿おうと連絡しましたが、勝頼は小山田信茂が守る岩殿山城へ退却してしまいます。

勝頼は岩殿山城に辿り着くも城門は固く閉ざされ行き場を失ってしまいます。

小山田信茂の裏切りです。

その後、甲州市大和町の天目山を目指しますが、目前で織田軍の滝川一益と対峙し善戦するも多勢に無勢、追い詰められた勝頼は自害。これにて武田氏は滅亡。

いちのまる
いちのまる

岩櫃城に逃げ落ちればもう少し延命出来たかもしれませんね。

ただ、その場合真田氏もかなりヤバい状況に追い込まれそうですが…。

岩櫃城

主家・武田氏の滅亡、本能寺の変(織田信長死去)の後、真田氏は本拠地の上田城(長野県)と岩櫃城の二城を拠点とし豊臣、徳川、上杉、後北条の間を必死の外交でなんとか家を存続させます。

1600年の関ヶ原の戦いでは親子分かれて参戦しています。

上田城&岩櫃城の真田昌幸、信繁(幸村)は西軍。
沼田城の真田信之(信繁の兄)は東軍。

結果はご存知の通り東軍(徳川家康)の大勝利で戦後岩櫃城は真田信之の領地の一部になります。

江戸幕府が開かれ暫く経った1614年、一国一城令が発令され岩櫃城は廃城となりました。

ちなみに関ヶ原の戦いで敗北した真田昌幸、信繁は高野山に追放。

昌幸は流人生活中に病死、信繁(真田幸村)は豊臣vs徳川最後の戦い大坂の陣で活躍しますが、それはまた別のお話。

 

終わりに

岩櫃城

岩櫃城に向かう道中にたまたま発見した池の薬師堂水牢跡。

沼田藩・真田信之の孫に信利(または信直)という人物がいます。

信利は酷い暴君だったらしく民衆に苛政を敷きました

税を治められない農民は妻子を捕らえられ、目の前で妻子が水攻めの拷問を受けたと云います。

後に沼田藩の圧政と幕府へ虚偽の報告が発覚し信利は改易処分となっています。

おしまい!

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