富山城の歴史について!越中売薬の基礎を築いた富山藩当主・前田正甫とは?【富山の旅】

富山城

或ハ富山城ヲ安住城又安城ト云訛也(安住、安ハ安田城ノ一名)

富山城新川郡ニ在テ平城也

西ハ神通川ヲ帯フ其城築ハ水越越前守勝重経始ト云

(中略)

神保氏三世之ニ據ト也

越登賀三州志 富山城より

或いは富山城を安住城、又は安城と云い訛った。
富山城は新川郡にあって平城である。
西は神通川を帯び、その城の築城に取り掛かったのは水越越前守勝重経始と云う。(中略)神保氏三世の拠り所になった。

富山城は16世紀半ばに築かれた平城で、築城者は神保氏の家臣・水越勝重だと伝わります。

引用した『越登賀三州志』の訳注には、水越勝重は神保長職と同一人物と書かれあり、従来その説が信じられてきました。
しかし、研究が進み現在では水越勝重が神保氏の家臣だったと判明しています。

それではその後の富山城の歴史を見てゆきましょう!

 

富山城へのアクセス

富山城

北陸自動車道・富山ICを下りて分岐を富山市街方面へ。道なりに10分程進むと左手に富山城が見えてきます。駐車場は城に併設されています。

公共交通機関を利用するなら富山駅から路面電車に乗り『丸の内』もしくは『国際会議場前』で降りれば目の前に富山城です。

富山駅から歩いて約15分なので、市街を散策しながら向かってもよいでしょう。

 

神保氏と富山城

富山城

富山城を築いた神保長職は没落していた神保家を再興させた有能な人物でしたが、敵対する越後の上杉謙信に幾度となく攻撃され城を奪われてしまいます。

斎藤新吾節所へ引かけ、月岡野と云ふ所にて人数立合ひ、既に一戦に及び追崩し、頸かず参百六十討とり、此競を休めず懸けまはり、所々人質執固、神保越中所へ相渡し帰陣候なり。

信長公記 越中御陣の事より

斎藤新吾は難所に退き、月岡野というところで戦い、敵を追い崩し、360の首を討ち取り、勢いを休めず駆け回り、各所で人質を執り固め、神保長住に引き渡し帰陣した。

長職の子・長住は織田信長に近づき、1578年(天正6年)に上杉謙信が亡くなると兵を与えられ富山城の奪還を果たしています。

 

去程に、越中国富山の城に神保越中守居城候。

(中略)

小嶋六郎左衛門・加老戸式部両人、一揆大将にまかりなり、神保越中を城内へ押籠め、三月十一日、富山の城居取りに仕り、近辺に煙を挙げ候。時日を移さず、柴田修理亮・佐々内蔵介・前田又左衛門・佐久間玄蕃頭、此等の衆として富山の一揆城取巻き候間、落去幾程もあるべからず、の旨注進申上げられ候。

信長公記 越中富山の城、神保越中居城謀反の事より

そうこうしているうちに、越中国の富山城に神保長住が居城していた。

(中略)

小島職鎮・唐人親広の両人が一揆の大将になり、神保長住を富山城内に幽閉し、3月11日に富山城を乗っ取り、近辺に火を掛けた。
時を移さず、柴田勝家・佐々成政・前田利家・佐久間盛政の軍勢が富山城に籠る一揆勢を包囲し、落城にどれほどもかかりません。との旨の注進が伝えられた。

1582年(天正10年)、武田勝頼の扇動に従った神保家の旧臣らが一揆を起こし、神保長住を攻撃し富山城に幽閉しています。

一揆勢は織田の援軍がいとも簡単に鎮圧され一件落着と思いきや、長住は責任を問われ追放されてしまいました。

その後の彼の消息は不明です。

 

佐々成政の統治

富山城

神保長住が失脚すると織田家臣の佐々成政に越中国が与えられ富山城を居城としました。

話は前後してしまいますが、以下の引用文には長住失脚以前の1580年(天正8年)に越中へ助勢として入った佐々成政の功績が書かれています。

霖雨連日止マズ、大ニ出水ス、舊來神通川ハ吳服山ノ麓ヲ流レシガ、是時ヨリ河身東に轉ジ、富山城後ニ傾注セシト云フ、又常願寺川モ氾濫シテ富山城ヲ浸シ家屋漂流シ、人馬ノ溺死算ナシ、城主成政大ニ之ヲ愁ヒ、其後水患ヲ除カント欲シ、被害地ヲ巡檢シテ大ニ治水ニ力ヲ致シ、

富山市史 佐々成政時代より

長雨が連日止まらず、多くの水がでた。旧来の神通川は呉服山の麓を流れていたが、この時より河は東に転じ、富山城の後ろに流れたと云う。
また常願寺川も氾濫して富山城を水浸しにして、人や馬の溺死は数えきれない。
城主の佐々成政は大いに悲しみ、その後水害をなくそうと欲し、被害地を調査して治水に力を入れた。

この時造られた堤を『佐々堤』といい常願寺川の川底に今も名残があるそうです。

長住失脚後には富山城の大改修も行っています。

 

富山城

本能寺の変で織田信長が横死し、羽柴秀吉が台頭すると佐々成政はそれに反抗しました。

初めは柴田勝家の味方に付き、賤ヶ岳の戦いで勝家が敗北すると、徳川家康や織田信雄らと組み秀吉に抵抗、打倒秀吉を掲げ、策を講じるも上手くいかず、結果孤立無援になってしまいます。

豐臣秀吉成政ノ異志アルヲ聞キ、自ラ兵十萬ニ將トシテ越中ニ向ウ、前田利家之ガ先驅タリ、

富山市史 佐々成政時代より

豊臣秀吉は佐々成政の謀反の志があるのを聞き、自ら兵士10万人の将軍として越中に向かう、前田利家が先駆である。

1585年(天正13年)、秀吉は10万の兵を以て富山城を包囲したため、成政は早々と降伏し富山城を明け渡しました。これを富山の役と言います。

越中国の新川郡を除く全ての領地が没収され、成政の富山統治はここで終わります。

数年後、佐々成政は肥後国(熊本)で失態を犯し切腹の処罰を受けている。

 

前田氏の居城に

富山城

秀吉前田利家ニ新川郡ヲ益封ス、是ニ於テ越中全國擧ゲテ前田氏ノ領地トナリ、富山城前田氏ノ有ニ歸ス、

富山市史 前田利長時代

秀吉が前田利家に新川郡を益封し、これに於いて越中全国が前田氏の領地となり、富山城は前田氏のものになる。

1598年(慶長3年)に豊臣秀吉、1599年(慶長4年)に前田利家が相次いで亡くなると、徳川家康に権力が集中し、保たれていた均衡が瓦解してゆきます。

前田利家の跡を継いだ前田利長は乱れる家中を統制しつつ、世間の動向に注視しなければなりませんでした。

今や越中国を支配する大大名となった前田家。ここで判断を違えば全てを失ってしまうかもしれません。(あらゆる大名に言えることだけれど。)

徳川家康は前田利長を超危険人物と見做したことでしょう。そして利長も家康に対して良い印象は持っていなかったはず。

そしてとうとう事件が発生します。徳川家康暗殺疑惑事件です。

前田利長は疑惑の首謀者だと疑われ、その処理に迫られます。実際に利長が暗殺を計画したかどうかはわかりません。利長を貶めるための家康の謀略だった可能性も多分にあります。

家康に反抗することも出来たかもしれませんが、利長は疑惑を払拭するため実母である芳春院(まつ)を人質として江戸へ送る判断を下しています。

これ以降は家康に従わざるをえません。

1600年の関ヶ原の戦いでは東軍(徳川家康側)に付き、居城の金沢城から出陣し大聖寺城の丹羽長重を攻撃しています。

利長は、褒賞として加賀と能登を加領され、越中を合せて3国・120石の国主となります。

 

富山城

利長封ヲ世子利常ニ讓リ、再ビ老ヲ富山城ニ養フ、此時家臣高山長房ニ命ジ、城ノ縄張ヲナサシメ、城郭ヲ修造シテ之ニ徙ル、

富山市史 前田利長時代

前田利長は領地を前田利常に譲り、再び富山城で老を養う、この時、家臣の高山右近に命じ、城の縄張を設計させ、城郭を改修してこれに移る。

利長には男子がいなかったため、前田利家の四男である利常を世継ぎとし、自身は富山城で隠居生活を送りました。

ところが1609年(慶長14年)に富山城が大火事に見舞われ、止む無く魚津城へ移城。その後、隠居のために高岡城を築き、そこで生涯を終えています。

1639年(寛永16年)、前田利常が二男の利次に10万石を分け与え、富山藩が成立。

利次系列の前田氏が明治維新に至るまで富山城を居城とし一帯を治めることになります。

 

前田正甫と富山の売薬

富山城

富山城址公園には富山藩2代目藩主の前田正甫の銅像が建てられています。

10万石もの石高があった富山藩ですが、分家なのです。おいしいところは宗家に持っていかれてしまい、なかなか辛い立場にあったと云います。

そんな中、前田正甫はどうにかして富山藩を繁栄させたいと苦心した人物でありました。

新規開拓や治水工事で農業生産を活性化させるのは勿論、製鉄などの産業にも尽力し、藩の財政改善を図ります。

彼の特筆すべき功績は製薬と売薬の発展に寄与したことでしょう。

病弱だった正甫は薬学に興味を抱き、専門家を呼びよせ反魂丹と呼ばれる胃腸薬の調合を習います。それを独自に調合し富山の反魂丹として流行らせ、諸国での売薬を推奨しました。

富山の薬売りは『先に用いてもらい、利益は後から付いてくる』いわゆる先用後利を実践し商域を拡げていきます。置き薬(薬箱)を家庭に預けておき、使用分だけお金を請求、使用済みの薬を補充するという配置販売業は現在まで続く商法です。

 

終わりに

富山城

そして明治6年、明治政府により廃城令が出されました。これによって富山城は正式に廃城となり、以後本格的に解体が進んでいきました。千歳御殿跡は「桜木町」、それ以外の部分は「総曲輪(惣曲輪)」という新たな地名が付けられ、順に払い下げられていきました。

富山城と私たちが暮らす街 富山市郷土博物館

明治時代になると富山城は廃城となり順次払い下げられ、開発が進みます。

江戸時代に数度起きた大火、明治期の廃城令、昭和の大空襲などによって富山城の遺構は殆ど失われてしまいました。

模擬天守の中にある博物館は富山城に関する史料などが展示されていて勉強になりますので、城がお好きな方にはおすすめです。

おしまい!

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