加藤嘉明が築城した伊予・松山城の歴史と城にまつわる伝説について【愛媛の旅】

伊予松山城

愛媛県松山市にある松山城は日本全国に12城しか存在しない現存天守の一つで、天守以外にも多くの建造物が重要文化財に指定される歴史的価値の高い城として人気を集めています。それに併せて当県の代表的な観光地である道後温泉が程近くにあるため、日々多くの観光客で賑やかです。

標高131.4mの城山(勝山)に築かれた当城は、(誰が言い始めたのかは知らないけれど)、兵庫県の姫路城、岡山県の津山城と並び日本三大平山城の一城に数えられ、また日本三大連立式平山城なる言葉もあるようで、その中にも松山城は含まれます。

連立式が付く場合は津山城が外れて和歌山県の和歌山城が仲間入りするそうです。

今回は松山城についての簡単な歴史と城に纏わる興味深い逸話を幾つかご紹介致します。

それでは参りましょう!

 

松山城の場所

松山城

私は自家用車で松山城に向かいました。市街は狭い道が多く、人の往来が激しいため運転し辛かったです。駐車場は城から少し離れた有料駐車場を利用しました。

松山城のホームページに詳しいアクセス方法が記載されています。下にリンクを張りますので、そちらを参考にして下さい。

【松山城アクセス・駐車場】

 

松山城の歴史

伊予松山城

文祿四年七月二十一日、公伊豫に於て增封せられ、舊領合せて六万石を領ず、同時に政府領四万石の管理を命ぜらる。公やがて淡路の志智城を引拂ひ、伊豫正木城に入る。

文祿中、公家臣足立半右衞門をして伊與川(ママ)(重信川)を改修せしむ、(此長約3里)之と同時に正木城市を擴張修築す。

昭和五年十月三十一日 松山市役所發行 伊豫史談會 加藤嘉明公より

文禄4年(1595年)7月21日、加藤嘉明公は伊予国(愛媛県)の一部を与えられ、旧領を併せて6万石を得る、同時に政府領4万石の管理を命じられた。
嘉明公はやがて淡路の志智城を引き払い、伊予の正木城に入る。
文禄年中、嘉明公の家臣・足立重信に伊予川(重信川)を改修させる、(この長さ約12km)これと同時に正木城下を拡張、修築した。

加藤嘉明は三河国(愛知県東部)に生まれた武将。豊臣秀吉に仕え、秀吉と柴田勝家との戦い賤ヶ岳の戦いで大活躍し出世街道を登っていった人物です。

正木城(まさき)は現・松山市の南西に位置する松前町(まさき)にあった城です。

家臣の足立重信の治水技術は大したものだったようで、その成果は称えられ伊予川と呼ばれていた川は重信川と改名され、現在までその名を残しています。

 

加藤氏と松山城

伊予松山城

同年十一月、公拾万石の加封となり舊領合せて貳拾万石の國司となる。十二月二日、公藤堂高虎と封彊(ママ,疆か?)各貳拾万石につき、所領區域を協定す。

(中略)

慶長六年、公勝山築城を計畫して幕府の許可を得たり、這は是迄の居城正木は貳拾万石の藩鎭としては狹隘に過ぎ、且地理的要害も便ならざるに因りてなり。

(中略)

慶長八年二月、家康征夷大將軍に任ぜられ、徳川幕府完全に成立す、此年十月、公正木より新城地(未完成)に移轉し、勝山を改めて松山と稱す、是れ今の松山市の濫觴なりとす。(公正木在城九ヶ年)

昭和五年十月三十一日 松山市役所發行 伊豫史談會 加藤嘉明公より

同年(慶長5年)11年、嘉明公は10万石の加増となり旧領合せて20万石の国司となる。12月2日、嘉明公と藤堂高虎が国境の問題について、所領区域の協定をする。
慶長6年(1601年)、嘉明公は勝山に築城を計画して幕府に許可を得た、これはこれまでの居城・正木城は20万石の藩を治める場所としては狭すぎる、なおかつ要害であるため不便なことが理由である。
慶長8年(1603年)2月、徳川家康が征夷大将軍に任じられ、徳川幕府が完全に成立した、この年10月、嘉明公は正木城より新城(未完成)に移転し、勝山を改めて松山と称する、これが今の松山市の始まりとなる。

 

伊予松山城

1600年の関ヶ原の戦いで大いに活躍した加藤嘉明は更に加増され20万石の大名になります。同じ伊予国を拝された藤堂高虎とは馬が合わなかったようです。

正木城から勝山に城を戻した理由は理解できました。しかしなぜ、勝山を松山に改名したのでしょう。『勝』はとても縁起の良い漢字ですが、もしかして家康からの因縁を恐れたのかもしれません。

『勝山?そんな所に城を建てて、あぁん!誰に勝つって?』みたいな。

後に家康は鐘銘事件で豊臣秀頼に難癖付けて戦争をおっぱじめるわけですし。

『松』の字も徳川家康の旧姓・松平からいただいたという説もあるようなので、そうであるならば相当気を使っていたと思われます。

 

松山城

寛永四年二月十日公陸奥會津へ轉封四拾三万五千五百八十四石三斗貳升七合を領ず。世人稀有の榮轉として羨望す。

(中略)

此年三四月の交、公松山を引拂ひ會津に赴く、松山在城を通じて伊豫に在ること實に三十三年に及ぶ。五月四日を以て會津若松城に入る。

昭和五年十月三十一日 松山市役所發行 伊豫史談會 加藤嘉明公より

寛永4年2月10日(1627年)、嘉明公は陸奥国會津へ転封、43万5584石3斗2升7合を領する。世間は滅多にない栄転だと羨ましがった。
3、4月の変わり目、嘉明公は松山を引き払い会津に赴く、松山在城を通じて伊予にいること33年に及ぶ。5月4日に会津若松城に入る。

幕府は初め会津の領主は藤堂高虎が適任だとし話を進めたようです。しかし高虎は受け入れず、代わりに加藤嘉明を推薦。

不和の関係にあったことを知っていた幕府は『どうしてか?』と尋ねると高虎は『不和は私事、会津を治めることは公事。公私混同はしません。彼以外の適任者を私は知らない。』みたいなことを言いました。

これがきっかけで嘉明の会津行きが決まったと云います。そして犬猿の仲であった加藤嘉明と藤堂高虎は『水魚の交わりを爲したり』という関係になったそうです。

 

伊予松山城

嘉明に會津移封の幕命が下つたが己が築きし松山城に憬れて一旦は『河村權七の如き勇士も已に死し自分も年老いたれば會津守備の重任は蓋し難し何卒松山に老を養ひたし』と辭した、されど幕府は『汝の子明成父に劣らざる勇あれば重ねて辭すべからず』と再命ありたるにより意を決していよ〱會津に移つた。

昭和十二年四月二十日 發行所『松山市役所』 國寶松山城より

加藤嘉明に会津移封の幕命が下ったが自分が築いた松山城に心を惹かれ、一旦は『河村権七のような勇士もすでに死んでしまい、自分も老いたので会津守備の重任は困難かもしれません。どうぞ、松山で余生を過ごさせて下さい。』と辞した。
それでも幕府は『汝の子・明成は父に劣らない勇があるから重ねて辞してはならない。』と再び命令があったのでいよいよ会津に移った。

【伊豫史談會 加藤嘉明公】には加藤嘉明の感情は書かれていませんが、【國寶松山城】は年老いた嘉明公の何とも切ない感情がひしひしと伝わる内容になっています。

いくら栄転とはいえ、30年以上いた場所から離れるのですから、心惜しく思ったのは間違いないでしょう。

 

蒲生氏と松山城

伊予松山城

その後、松山城には嘉明と入れ替わる形で会津から蒲生忠知が入城しました。

蒲生忠知は未完成であった松山城の築城に取り掛かり二の丸を完成させたと云います。

しかし在城7年目、参勤交代の途次に急死してしまいます。忠知は後継ぎに恵まれなかったため蒲生氏はここで断絶してしまいます。

蒲生忠知は織田信長、豊臣秀吉に仕えた名将・蒲生氏郷の孫に当たります。

 

久松松平氏と松山城

伊予松山城

蒲生氏断絶の後、凡そ一年間空けて松平定行が伊予国15万石を賜り松山城に入城。

定行は徳川家康と異父兄弟の関係にある松平定勝の息子、ざっくり言えば徳川家康の甥です。祖先が久松氏を名乗っていたことから久松松平氏と呼ばれています。

定行の代に5層あった天守が3層に作り替えられました。【國寶松山城】には『二峯を一山とし本丸を築きたる爲め自然に山なびき狂ひを生じ、五層の天守は危からんとの虞によりこれを三層となしたのである。』と書かれています。

地盤の悪い場所なので地震とか起きたら崩れてしまうという理由でしょうか?

『2009.10.25』の愛媛新聞朝刊に松山城の天守について書かれた興味深い記事があります。

『2枚の古地図が発見され確認してみると、現在の天守付近には池が書かれており築城当時の天守は違う場所(今の小天守辺り)にあった可能性がある。』

かなり割愛しましたが、こんな感じの内容です。5層から3層に作り直したときに場所も少し移動したのかもしれないということですね。

1784年(天明4年)、天守に雷が落ちて焼失。約50年間そのままになっていましたが、1820年(文政3年)に再建工事が始まり、1854年(安政元年)に竣工されました。この時再建された天守が現在まで残り続けています。

そんなわけで、松山藩は明治時代が訪れるまでの約230年の間、久松松平氏によって統治されました。

 

松山城の伝説

伊予松山城

松山城の歴史については以上です。

最後に城に纏わる伝説を紹介して終わります。

もうちょっとだけお付き合いください。

 

かつえ山の伝説

伊予松山城

松山城山の東山腹に長者が平といふ平地がある。これは鎌倉時代にこゝに近鄕隨一の長者が住ひその屋敷があつたといふのであつて、その長者にまつはる面白い傳説がある。

昭和十二年四月二十日 發行所『松山市役所』 國寶松山城より

長者はかつて貧乏でした。

どうしてもお金持ちになりたくて、とても離れた毘沙門堂に通い百度参りを行います。その際に境内の小竹を1日1本ずつ持って帰りました。

99日目の夜。

夢の中で毘沙門天が『頑張ったから願いは叶えてやるが、竹を持って帰られたら困るので戻してくれ!』告げます。

これには驚き満願の夜、99本の小竹を戻し御詫びと感謝の気持ちを伝えます。

すると諸事万端が意のままに進み、忽ちに大金持ちになり、願いが成就したのでした。

しかし、大金持ちになった途端、殆ど話したことの無いような親族縁者、はたまた全く知らないような人までもが屋敷に詰めかけるようになってしまいました。

困り果てた長者は『貧乏の時のほうが幸せだったのでは?』と考え、お金を使い切ろうと散財します。

ところが、使っても使ってもお金は増えていく一方。

そんな時、とある人物が長者に『家の桝を人に見られないように水で洗えば貧しくなる。』と言ったので、早速言われた通り、夜な夜な桝を洗いに出掛けます。

これをきっかけに長者は次第に貧乏になっていき、最後は山の上で餓死して亡くなってしまいました。

故にこの山を『かつえ山』と呼んだのであります。

 

かつえ山から勝山に

伊予松山城

松山城が築城されるちょっと前のお話です。

加藤嘉明に築城の監督を命じられた足立重信は土地の様子を確かめるべく山に登りました。

そこには小さな祠があり、近くで樵の翁が枯草を掻いています。

『この祠の名は何といふか、山の名は?』と尋ねると翁は

『山の名はかつえ山、かつえ山八幡大三島の末社』と答えた。

重信はこれをきゝ『さて〱勝山と申すか、城を築くにこの上なき目出度き名ぢや』

とて嘉明に復命して山の名を勝山と改めたといふ。

昭和十二年四月二十日 發行所『松山市役所』 國寶松山城より

かつえ山という名前が余りにも城山に適していなかったため重信が機転を利かせて改名したというお話です。

 

蒲生氏断絶と俎石

伊予松山城

二の丸跡今の衛戌病院には俎石といふ傳説の權化が現存し兵士達もこれを非常に警戒してゐるとのことである。

昭和十二年四月二十日 發行所『松山市役所』 國寶松山城より

蒲生忠知に纏わるかなりホラーな逸話です。

忠知は後継ぎに恵まれませんでした。実際、嗣子が無く御家は断絶しています。

ありとあらゆる方法で男子を授かろうとしましたが、一向に叶いません。

ある日から城から街を見渡し通行する妊婦を攫うよう命じ、捕まえた妊婦を俎石の上に寝かせ、その腹を裂き男子を求めましたが、裂いても裂いても女子ばかり。

やがて、妊婦や赤子の亡霊が現れ、怨みを晴らすべしと忠知を酷く呪い、その恐ろしい力によって忠知は急死、蒲生氏は断絶してしまったという怪談です。

『この話はフィクションです。』

ダメでしょ、この話…。

もし事実ならもっと有名な話になっているはずです。

 

城濠の啼かずの蛙

伊予松山城

松山七不思議の一つに『啼かずの蛙』が數へられてゐる。

昭和十二年四月二十日 發行所『松山市役所』 國寶松山城より

時の城主が病気に臥しているとき、堀の蛙があまりにも『ゲコゲコ』と五月蝿いので『お前ら黙れ!騒ぐと堀に住ませんぞ!』と怒鳴ったら静かになったという、ちょっとオチのない話です。

ところで松山七不思議ってなんだろう?

 

終わりに

伊予松山城

松山にはまた訪れたい。

今度は泊りでゆっくりと松山城以外にも市街や道後温泉を観光したいものです。

おしまい!

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