詳細は不明?豊かな水に囲まれた女淵城跡【群馬の旅】

いつ誰が築城したのか全くわかっていない城跡は日本各地にあります。

女淵城もそうであり一部の史書にほんの少しその名前が見えるだけ。私のような素人は歴史家が読む古文書を手に入れられませんし、読み解けないし、読んでいる時間もありません。

ですから全く知らないマニアックな歴史を調べる際には、まずはインターネットで情報を漁って史書の原文がパソコンで読めるかどうかを確認します。可能なら知りたい部分を読んでみて当地の説明板や歴史に詳しいサイトと照らし合わせて自分の中で納得できるように落とし込みます。

もし史書が見つからないなら関連する地理、歴史、人物を時間の許す限り調べて『多分こうなんだろうなぁ。』とまとめます。ただ出鱈目を書くわけにはいかないので書くことは限られますし、どうしても他サイトと似通った内容になってしまいます。

できる限り独自性を出したいところですが非常に難しい。

私のブログは『当地に自ら訪れ空気を感じ写真に収めること。』それに+ちょっと詳しく調べてみるというスタンスなので、これはこれで良いのかもしれません。

で何がいいたいのかと言うと、これがあまり内容の無い記事なので文字数稼ぎをしたという訳です。

では本題に入りましょう。

 

女淵城へのアクセス

女淵城跡

電車なら上毛電鉄の新屋駅下車で徒歩10分くらい。

車で向かうなら群馬県道3号線の女淵交差点を北へ曲がり狭い道を頑張って進むべし。

場所がわかりづらいので地図を張っておきます↓

 

 

女淵城跡について

女淵城跡

冒頭でお伝えした通り女淵城の築城年数及び築城者については不詳です。

南北朝時代に『女淵の合戦』があったようですがどんな戦いだったのか城がここにあったのかこれまたよくわかりません。

おそらく足利尊氏vs足利義直の兄弟抗争『観応の擾乱』の最中に義直側の上杉憲顕(初代関東管領)が対立する勢力を追い出したときのことだと思われます。

 

女淵城跡

群馬県の城の多くは主がコロコロと変わります。

女淵城もご多分に漏れず斯くの如し。

戦国時代の勢力図を見ていただくとすぐわかりますが、当時の群馬は『越後の龍こと上杉謙信』『甲斐の虎こと武田信玄』『相模の獅子こと北条氏康』といった感じのRPGでいうところのラスボス級の皆様方に囲まれているという立地でした。

ってなわけで群馬は場所的に彼らが衝突しやすい場所だったのです。ですから地元の豪族は身を守るために勝ちそうな大名に付いたり、やばそうなら鞍替えしたりと大変だったみたい。

もともと女淵城にいた人物はわかりませんが、おそらく彼らの戦いに巻き込まれて滅亡したか何処かへ引っ越した、或いは帰農してしまったのでしょう。

 

女淵城跡

ここが本丸跡。

写真右奥に本丸跡の石碑が建っています。

上記3大名が取ったり取られたりを繰り返し最終的に後北条氏の手にわたります。

そして1590年(天正18)の豊臣秀吉による小田原征伐(北条征伐)で女淵城は落城しそのまま廃城したとされています。この件は当ブログで何回書いたかわかりません。

関東の城郭は小田原征伐→落城→廃城の流れが本当に多いです。

 

終わりに

女淵城跡

女淵城は豊かな水に囲まれた水城という珍しい城郭でした。

近隣だと同県の館林城や埼玉県の忍城が水城の有名ですね。

ただ女淵城は水に囲まれているといっても小規模な城だったでしょうから大軍で攻められたら一溜りもなかったと思われます。

おしまい!

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