耳川の合戦とは?大友vs島津の決戦をフロイス日本史から見る【宮崎の旅】

耳川の合戦

耳川の戦いは1578年に大友宗麟と島津義久の間で行われた合戦です。

耳川で起きた戦いだと思われがちですが、実際は高城という城を巡って争われました。

耳川の戦いと言われる理由は後述します。

大友宗麟は豊後国(現大分県)、島津義久は薩摩国(現鹿児島県)の大名。

この戦いで大敗を喫した大友氏は没落の一途を辿ることになります。

今回はルイス・フロイスの日本史を参考にしながら耳川の戦いについて書きます。

 

耳川の戦いが起きた場所

耳川の合戦

東九州自動車道の高鍋ICを下ります。

最初の信号を左に曲がってしばらく進むと左側に『高城川合戦場跡』の看板が見えてきますので、それを過ぎてすぐの右折車線に入ります。

右折後少し進むと左に合戦についての案内板があります。(橋の手前)

付近には高城跡、宗麟原供養塔などの耳川の戦いに関する史跡が残っています。

 

フロイスの日本史について

耳川の合戦

今回、参考にした本はコチラ!

ルイス・フロイスが書いた日本史(Historia de Iapam)です。

ポルトガル出身のルイス・フロイスは戦国時代にイエズス会の宣教師として日本にやってきました。織田信長や豊臣秀吉、その他多くの戦国大名と交流し布教活動に勤しみました。

フロイスはイエズス会本部から日本での布教活動の軌跡を残すように命じられ、執筆に専念することになります。彼は布教活動の報告書の域を超えた作品を造り上げます。

布教の進退、西洋人からみた日本の文化、戦国大名たちの様子…etc.などを書き残します。

これをまとめた書物が日本史(Historia de Iapam)。

大友氏当主の大友宗麟はキリシタン大名でした。耳川の戦い前後の様子がルイス・フロイスによって書かれています。一部引用しながらどのような戦いだったのか見ていくことにしましょう。

 

耳川の合戦について

耳川の合戦

フロイス日本史の第三十八章で隠居の身であった大友宗麟が洗礼を受けキリシタン大名になっています。また第三十九章で大友氏当主の義統がキリスト教の教えに感化されつつあります。

日向の国主は三位殿という名で、追放の身であり、自領で持ち得た権利をことごとく(豊後国主の)嫡子に譲っていたが、いかなる方法によっても日向の国主に復帰する望みがないので、せめてもの願いとして、自分と孫たちが生計を立てられるよう豊後で若干のものを与えられたいと願った。

フロイス日本史7 大友宗麟 篇Ⅱ 第四十章 155頁より

三位殿は日向国(宮崎県)の大名・伊東義祐のことです。薩摩国の島津義久に攻め込めれ命からがら大友宗麟の下へ逃げ落ちました。

もうどうやっても復帰が出来ないという絶望感が出ていますね。

伊東氏については下記リンクで触れていますのでお時間のある方はどーぞご覧ください。

彼は、既述のように、日向の国に、一つの堅固で、ローマにまでその名を馳せるほどのキリシタン宗団を形成する決意でいた。

フロイス日本史7 大友宗麟 篇Ⅱ 第四十章 156頁より

大友宗麟は伊東氏の旧領復帰キリスト教の布教を目的に日向へ侵攻します。

 

宗麟、高城包囲

耳川の合戦

大友宗麟は日向に入り土持と呼ばれる場所に到着します。

豊後国主の軍勢は、日向の国内深くに侵入し、幾つかの城は流血を見ず、なんの苦労もなしに明け渡された。

豊後の軍勢が、日向国の中の征服地と非征服地を分つ耳川を渡ると、それは薩摩方を大いに驚愕させた。

何故ならば彼らはこの川を自分たちの防衛線としていたからである。

豊後の兵士たちは、薩摩から援助に来る者に比べると少数であったが、高城という城を包囲することに決めた。

フロイス日本史7 大友宗麟 篇Ⅱ 第四十章 161頁より

いちのまる
いちのまる

耳川高城

今回の戦のキーワードが出てきましたね!

この後、高城を攻撃しますが失敗しています。敵の反撃が強烈であったことは間違いないのですが、フロイスは仲間同士の嫉妬心から来る妨害で城を落とせなかったと書いています。

真っ向からの城攻めが難しいと判断した大友軍は兵糧攻めに作戦変更しました。

フロイスの日本史は当然のことながらキリスト教絶対の精神で話が進み、日本の宗教をボロクソに扱き下ろしています。

大友宗麟がキリスト国を造るために領土を広げようとしたことから、フロイスは宗麟に大いなる希望を抱き、まもなく9ヵ国(九州)が強い影響力を持った大規模なキリシタンの宗団が現われると本気で考えていました。

 

順調な豊後勢

耳川の合戦

宗麟が日向に入った後、息子・義統も戦を円滑に進める目的で臼杵から出陣し野津に陣を構えます。

キリスト教のことばかり考えている義統を見た家臣たちは『今は信仰のことではなく合戦のことだけを考えるべき』と忠告します。しかし義統は聞き入れません。

義統の夫人の洗礼について書かれている頁に下記のように記されています。

数日前、敵は豊後の味方から一城を奪ったこともあって、彼には家臣たちへの配慮からお祭り騒ぎをするのはよくないと思われた。

フロイス日本史7 大友宗麟 篇Ⅱ 第四二章 176頁より

どの城のことかはわかりませんが着々と決戦が近づいていきます。

またその少しあと宗麟から義統に届いた書状に

薩摩にもっとも隣接した日向の三城が豊後勢の手に落ち、城にいた主将らを殺し、その後へは豊後の主将を配置したと報ぜられていた。

フロイス日本史7 大友宗麟 篇Ⅱ 第四二章 185~186頁より

とあります。なかなかの調子です。

 

薩摩勢の逆襲と豊後勢の大敗

耳川の戦い

いったい誰が、豊後国主の上に不測の事態が生じると想像したであろうか。けだしこの国主こそは、カトリック信仰の高揚と、神ならびに仏の打倒のために戦う人である。

(中略)

この国主に、すべてが裏目に出ようなどと、何人が考えたであろうか。だが事実そのようになったのだ。

フロイス日本史7 大友宗麟 篇Ⅱ 第四四章 200頁より

いきなり雲行きが怪しくなります。

そして…。父・宗麟から書状が届く…。

国主の全陣営は、敵によって破壊され、その軍勢は全員急遽敗走しており、なぜこの事態に立ち至ったのか、誰が、そして幾人戦死したのかも判らず、正確な事情は判明し次第、この使者に引き続き、次の使者として伝える

フロイス日本史7 大友宗麟 篇Ⅱ 第四四章 201頁より

正確な情報が義統の下に入る。

 

たった今、我が軍勢が全滅したとの確実な情報を受理した。

兵士の大部分は戦死したが、その中には豊後の精鋭がことごとく含まれている。

多くの義兄弟、伯叔父、従兄弟、親族の人々、豊後国の重立った老中たちも戦死し、父なる老国主も、いかんともなすを得ず、それまで作りあげたものは全て放棄して、急ぎこちらに逃走しつつあり、すでに野津から七里の宇目というところに来ている。

フロイス日本史7 大友宗麟 篇Ⅱ 第四四章 203頁より

家臣たちの一部はこの敗北の知らせを聞き『キリシタンたちが主人に良からぬことを吹き込んだせいでこのようになった』と吹聴し、迫害するものまであったそうです。

 

フロイス、手のひら返し!

耳川の合戦

ここでフロイスが恐ろしいことを書いています。

ところでこのたび豊後勢が敗北した最大の原因は、我らの主なるデウスが、豊後の人々を罰することを望み給うたことにある。

なぜならば、これら同国の指揮官や一般兵士らの罪は積りに積り、デウスはこれ以上、厳罰、ならびに恥ずべき屈辱を彼らに与えずに見過すことを許し給わなかったからである。

フロイス日本史7 大友宗麟 篇Ⅱ 第四五章 205頁より

いちのまる
いちのまる

ちょっと前まで九州がキリシタン宗団になるとかウキウキしてたくせに、見事な手のひら返しです。

豊後国でキリスト教に靡かない臣下たちが戦争のことなど協議せず、如何にキリシタンを迫害するかで話し合っていたからこうなったと言うのです。

デウスが薩摩軍を道具として使って豊後兵を懲らしめたとまで書いています。

 

フロイスの悪態

耳川の合戦

このあと、薩摩軍の得居戦法『野伏せり』についての記述があります。

それは一五七八年の十二月二日、火曜日のことであった。

薩摩勢は、豊後勢を誘き出せるかどうか見ようとして、若干の囮の兵をもって出動し始めた。

二回にわたってこうした行動が繰り返されたところ、豊後勢の無秩序はこの上ない有様であったから、彼らはもはや我慢しきれなくなり、味方の優位を信じきって出陣することを欲した。

彼らはそれが敵の策略であることに気づくことなく、計画的に逃げるふりをして走る敵を追跡し、ついには自分たちに対して仕掛けられていた罠に陥るに至った。

フロイス日本史7 大友宗麟 篇Ⅱ 第四五章 208頁より

島津勢はこの戦で負けたなら豊後勢が薩摩まで押し寄せてくると考え決死の攻撃を仕掛けました。

かなりのダメージを負った豊後勢ですが、戦い方によってはまだまだ対抗できたようです。がしかし、豊後勢は己の利ばかりを追求する家臣ばかりで互いに協力し合う団結心がありませんでした。

フロイスはこの合戦の大将だった田原親賢をけちょんけちょんに虐げています。

・卑劣で下賤な恐怖心にとりつかれている。
・巨体で40歳過ぎなのに足に羽が生えた如く逃走した。
・彼の心は挫けた。
・恐怖のため脇道に入って血尿をもよおした。
・やつはデウスの教えに対しての不倶戴天の敵。
・あの様は末代までの恥。

 

耳川の戦いと呼ばれる理由

耳川の戦い

敵方は豊後の将兵を殺害しながらなおも追跡の手をゆるめなかったので、豊後の将兵たちは、ついには差し迫った危険と死の追跡から免れようと、水量豊かな耳川に身を投ずるほかなく、ほどなく水中に没し溺死した。

フロイス日本史7 大友宗麟 篇Ⅱ 第四五章 211頁より

高城川の戦いが耳川の戦いと呼ばれる所以はここにあります。

豊後の兵隊の多くは耳川で戦死しました。その印象があまりに強すぎたためそう呼ばれるようになったと言うことです。

 

この戦のために大勢の人々の上に生じた不幸で不運な結果について個々にのべることは差し控え、また豊後の各地における、死者のために泣き悲しむ人々の慟哭、悲嘆、嗚咽についても割愛する。

これらの死者は、たびたび私が聞いたところでは、二万を超えたという。

薩摩の軍勢とても、まるで自分たちには悲しみがなかったかのように勝利を誇るわけにはいかなかった。

なぜならば彼らもまた、多数の負傷者のほかに八千名近い死者を戦場に残すことになったからである。

フロイス日本史7 大友宗麟 篇Ⅱ 第四五章 211頁より

フロイスの言うことが正しければ両軍合わせて28000名の戦死者が出たということになります。

大規模で熾烈な戦であったことが想像できます。

 

終わりに

耳川の合戦

写真は耳川です。

耳川の戦いが起こるまで九州で最大勢力を誇っていた大友氏は没落していきます。

大友宗麟は自家の力だけでは島津氏を抑えきれなくなり織田信長、豊臣秀吉に助けを求めるようになります。

あれだけ熱心に司祭の言葉に耳を傾けていた大友義統はこの戦いをきっかけにキリスト教のことが大っ嫌いになってしまいましたとさ。

おしまい!

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