九州地方

中津市

我々はもっと勉強しなければならない。福沢諭吉旧居と福沢記念館へ行く【大分の旅】

併設されている福沢記念館。館内は撮影禁止なので写真はありません。かなり充実しているのでしっかり見ると1時間以上かかります。福沢諭吉の書籍は『学問のすゝめ』しか読んだことがありません。細かい内容は覚えていませんが、取り敢えず勉強しろ!と諭された気分になった記憶が残っています。
国東市

墓から生まれた坊主のカリスマ!通幻寂霊禅師とは?【大分の旅】

通幻禅師の生涯を見る前に『子育て幽霊(産女)』という日本の怪談を紹介するのでまずはどうぞ。 とある夜、飴屋が店じまいの準備をしていました。そこに髪を乱した青白い顔の若い女が現れ『飴を下さい…。』といい一文銭を差し出します。飴屋の主...
臼杵市

臼杵城下の町並み二王座歴史の道を歩く【大分の旅】

二王座歴史の道は武家屋敷や寺院が立ち並ぶ臼杵の城下町です。名の由来は二王座地区の祇園社(現八坂神社)に仁王門があったからとされています。二王座歴史の道には城下町の風景に溶け込んだ飲食店やお土産屋が並んでいます。臼杵観光に臼杵城と併せておすすめ出来るスポットです。あとちょっと離れているけど国宝・臼杵石仏もいいですね。
臼杵市

江戸時代、15代に亘って臼杵を治めた稲葉氏と旧稲葉家別邸について【大分の旅】

関ヶ原の合戦以後、明治維新に至るまで臼杵の地は稲葉氏によって治められました。今回訪問したのは『国登録有形文化財 旧稲葉家別邸』です。この屋敷は明治時代に発布された廃藩置県のあと東京へ移り住んだ旧臼杵藩主の稲葉氏が帰郷するために建てた別荘のようなもの。建築年は1902年(明治35)です。
玖珠町

角牟礼城に登って来たので景色とともに歴史を紹介しようと思う【大分の旅】

今回は角牟礼城跡へ行ってきました。標高577mの角埋山頂上付近に築城された城なので本丸まで登るのに大変苦労しました。でも本丸付近から眺める景色は美しく澄み渡り、空気が美味しく、登って来た疲れを忘れさせるような爽快さを味わえます。さて、角牟礼城の風景とその歴史を見ていくことにしましょう。
八女市

たまたま通りすがった星野村の石積の棚田を見て思う【福岡の旅】

棚田は急斜面に作られた階段状の田んぼのことをいいます。八女市星野村の広内・上原地区の棚田は約12.6haに137段、425枚の棚田が標高差約230mの急斜面にあります。ここは山間部のため平野が少なく水田面積を確保出来なかったため作られました。起源はわかっていませんが、機械が存在しない時代からあることは間違いありません。
佐賀市

肥前の熊こと龍造寺隆信の生誕地と高伝寺境内の墓に行く!【佐賀の旅】

佐賀市にある龍造寺隆信の生誕地と墓に行ってきました。龍造寺隆信は1529年に肥前国の水ヶ江城で生まれた武将です。龍造寺氏は国人衆として少弐氏に仕えていましたが、隆信の下剋上によって戦国大名まで上り詰めています。肥前国を統一後、更なる勢力拡大を目指し豊後国の大友氏や薩摩国の島津氏と対立するようになりました。
佐賀市

佐賀藩の祖・鍋島直茂の軌跡。胞衣塚と高伝寺の墓所を訪れて【佐賀の旅】

佐賀市にある鍋島直茂の生誕地と墓に行ってきました。鍋島直茂は1538年に肥前国佐嘉郡の本庄館で生まれました。戦国大名の龍造寺氏に従い武功を重ね、主君の龍造寺隆信が戦死したあとは家老として龍造寺氏を主導しています。その後、豊臣秀吉や徳川家康の下で大いに活躍し佐賀藩の藩祖になりました。1618年に病死。享年81。
佐賀市

日本赤十字社の礎を築いた佐野常民の記念館を見学してきた!【佐賀の旅】

佐野常民は1823年に佐賀郡早津江村で生まれました。9歳のときに藩医・佐野家に養子として入りました。常民は藩校の弘道館に入り優秀な成績を収めたそうです。それから江戸、京都、大阪と遊学。帰省すると佐賀藩精煉方の主任に任命されます。1855年からは幕府の長崎海軍伝習所の一期生として蘭方医学や航海術を学んでいます。
北九州市

小倉城へ!デートに最適な観光地ってこういうところをいうんだろうな【福岡の旅】

戦国時代には毛利氏と大友氏が小倉周辺で激しい戦闘を繰り広げています。少なくともその頃には小倉城があったようです。豊臣秀吉による九州征伐の後は毛利勝信が小倉城に入城しています。関ヶ原の戦いで毛利勝信は西軍に味方したため小倉城は東軍(?)の黒田官兵衛に囲まれ降伏、落城しています。毛利勝信は改易されています。
日南市

飫肥城と伊東氏の歴史について。当地を島津氏と80年以上もの間、奪い合った結末は?【宮崎の旅】

飫肥城は宮崎県日南市中央部に位置する飫肥地区にあった城です。築城年や築城者は不明ですが、南北朝時代には存在していたのではないかと考えられています。戦国時代に入ると伊東氏と島津氏が飫肥城を巡り争っています。日向国から追い出された伊東氏は、路頭に迷いながらも最後は飫肥の地を取り戻し、明治維新に至るまで飫肥藩主を務めました。
北九州市

源平合戦から江戸時代に廃城になるまでの門司城の歴史について【福岡の旅】

門司は『もじ』と読みます。門司は九州と本州を結ぶ最短の位置にあることから古来より人の往来があり関所が置かれました。この関所が門司関と呼ばれ、そのまま地名になりました。門司城跡の案内板に『平安時代後期に長門国目代の紀井通資が平知盛の指示を受け城を築いたと云われている。』といったことが書かれていました。
国東市

豊後大友氏の一族、田原氏の居城だった国東半島の安岐城へゆく【大分の旅】

築城者とされる田原氏は豊後大友氏初代・能直の庶子である泰広を祖としています。能直は源頼朝の部下ですので平安時代後期から鎌倉時代の人物です。田原氏は能直の子供から繋がっている家系なので大友三家の一つに数えられています。豊後国図田帳という文書の田原郷の項目に泰広の名前があるので地名から苗字を取ったことがわかります。
佐賀市

若かりし頃の大隈重信や江藤新平が通った佐賀藩の藩校・弘道館跡に行ってきた【佐賀の旅】

佐賀の七賢人の内、鍋島直正を除く6名(佐野常民、島義勇、副島種臣、大木喬任、江藤新平、大隈重信)は若かりし頃、弘道館で勉学に励みました。幕末から明治にかけての激動の時代を生き、結果はどうあれ、強い志を胸に混沌の中をひたすらに突き進みました。弘道館の遺構は残っていませんが、跡地に石碑と徴古館という博物館が建っています。
佐賀市

佐賀藩主鍋島氏の万部塔と龍造寺家兼ゆかりの六地蔵を見に行った【佐賀の旅】

佐賀市に万部塔と六地蔵という史跡があり、万部島と呼ばれています。万部とは万部経のことで『追善や祈願などのために、万部の経典を読むこと』の意味があります。万部島は川(堀)に囲まれた島だったようです。万部読経が行われた島ということですね。佐賀の役招魂碑があります。これは明治七年の佐賀の役で戦死した212名を祀る碑です。
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