黒田官兵衛ゆかりの西蓮寺と謎の人物?!黒田市右衛門ってどなた?【大分の旅】

寳池山西蓮寺(ほうちざんさいれんじ)は1588年(天正16)に光心師が創建しました。

光心師は黒田官兵衛(孝高)の実弟である黒田市右衛門で父・職隆が1585年(天正13)に亡くなったときに出家した僧侶です。といったことが寺の案内板に書かれています。

黒田官兵衛の家系は貝原益軒の黒田家譜を拠り所に研究が進みそれを通説にしています。

しかし官兵衛が生まれた播磨国に残る荘厳寺本黒田家略系図では、官兵衛の祖父だと思われている黒田重隆が実父になっており小寺職隆の養子に入ったことになっています。また治隆なる兄がいて黒田氏を継いだなど通説とは異なった説が記されています。

このことが気になる方は『要点解説 黒田家前史研究』を参考にしてご自分で判断してください。

いちのまる
いちのまる

↑のサイトは閉鎖していました。

西蓮寺へのアクセス

自動車で向かうなら中津駅北口前の駐車場か福沢諭吉旧居(記念館)で駐車するのがよいかと思います。福沢諭吉旧居もついでに観光していきましょう。

中津駅北口から信号がある交差点を直進。すると小さな川が見えてきますので川に沿って左折します。50mくらい歩くと小さな交差点がありますので右折。そのまま道なりに進むと道路が石畳になります。石畳通り(寺町通り)を左折すればすぐ到着します。

福沢諭吉旧居(記念館)からなら駐車場から左に出てしばらく歩くと石畳の道があるのでそこを左折して直進すれば着きます。

共に徒歩5~7分で行けるでしょう。

 

寳池山西蓮寺について

西蓮寺

1586年(天正14)から1587年(天正15)に行われた九州平定のあとに官兵衛は豊臣秀吉から豊前国六郡およそ18万石(諸説あり)を拝領し中津城の築城を開始しました。

豊前国六郡は『京都、築城、中津、上毛、下毛、宇佐』のこと。

冒頭とやや重なりますが西蓮寺縁記によると、

光心師ノ父心光師逝去之時出家ス龍谷ノ教ヲ奉シテ播磨餘部ニ徳榮寺ヲ開ク黒田如水中津入國ノ時中津ニ来リ西蓮寺ヲ開ク小倉西蓮寺モ開ク長政公筑前入國ノ時光心師又来リ徳榮寺地ヲ賜リ徳榮寺ヲ建立ス

西蓮寺説明板 西蓮寺縁記

光心師のお父さん職隆が亡くなったとき出家しました。浄土真宗の教えを持って播磨餘部に徳榮寺を開きました。黒田官兵衛が中津に入国したとき一緒に中津に来て西蓮寺を開きました。小倉西蓮寺も開いています。黒田長政(官兵衛の息子)が筑前に入国のとき光心師は筑前に来ました。徳榮寺の土地を貰って寺を建てました。

 

西蓮寺

ただ光心師こと黒田市右衛門について調べてみても情報が見つかりません。

官兵衛には利高、利則、直之の弟がいます。しかし市右衛門は見当たりません。

もしかすると出家してしまったので名前が残らなかっただけなのかもしれませんが、説明板から推測するに職隆が亡くなる1585年(天正13)までは武将として活躍していたのでしょうから少しくらい話題になってもいい気がします。

いちのまる
いちのまる

本当に存在したのかなぁ…?ちょっと怪しい…。

終わりに

本堂は1844年(弘化元・天保15)に再建されたもので発起人は播磨屋助次郎という8歳の少年だったそうです。

少年は川から必死に石を集めてお堂を建てようとしました。それに驚き感心した総代は再建に尽力したとのこと。

再建当時の中津藩主・奥平昌服はこの話を聞いてか西蓮寺本堂でお茶会を催すようになりましたとさ。

おしまい!

タイトルとURLをコピーしました