金沢城は犀川と浅野川に挟まれた細長い丘陵地帯である小立野台地の先端に築かれた平山城で、本丸の標高は約60m、城下町との標高差は約30mである。主要な範囲は、本丸、二ノ丸、三ノ丸、新丸、金谷出丸とこれらを取り囲む堀の範囲で、総面積は約30ヘクタールに及ぶ。
国指定史跡 金沢城跡 案内板より
金沢城は戦国時代に織田信長の家臣・佐久間盛政が築いた平山城です。
城跡は金沢城公園として整備され、お隣の名勝・兼六園と共に金沢市に来たら外すことの出来ない人気観光スポットになっています。
その歴史的な価値が認められ城跡が国の史跡に、『石川門』『三十間長屋』『鶴丸倉庫』の三棟が国の重要文化財に指定されています。
それでは、金沢城の歴史について紹介致します。
金沢城へのアクセス
福井方面から向かうなら金沢西IC、富山方面なら金沢森本ICを下りて向かいましょう。
金沢城周辺は自動車の往来が激しく、また観光客も多いため運転に慣れていない方は難儀するかもしれません。
駐車は石川県営兼六駐車場が近くて便利です。
金沢駅からのバスが充実しているので、バスを利用した方が混雑する中を運転するより気楽でしょう。(タクシーが一番楽!)
名前の由来
金澤尾山御山三名一城ニシテ當國ノ都城也
三州志來因槪覧附錄卷之一 金城名號來因より
金沢には尾山や御山という別名があり加賀国の都市・城であるという意味です。
盖し尾山ハ古記ニ考ルニ石川郡山崎山ノ尾先ニ在ユエカク號ストナリ
又云當城地ハ白山ヨリ是マデ山續キ綿々トシテ斷エス此城地ニ至テ始テ終ルニ因テ終リ山ト云
義ヲ畧シテ『ヲヤマ』ト唱ヘ又白山ノ尾ト云意ニテ尾山トモ呼フト也
三州志來因槪覧附錄卷之一 金城名號來因より
また、当城地は白山よりこれまで山続き綿々として断ずることなく、この城地に至って始めて終わるため『終り山』と云う。
言葉の意を略して『ヲヤマ』と唱え、また『白山の尾』と云う意味にて尾山とも呼ぶ説もある。
盖し當城地ハ暦應康永ノ比ヲ歷テ享德二年癸酉ニ至テ漸ク城地トナル
而シテ又三十餘年ヲ得テ長享元年丁未ノ比城地漸ク固クナリ本願寺ノ釋徒推崇シテ加賀ノ御山と稱スト云
天正八年庚辰佐久間盛政御山ヲ攺メテ尾山ノ字ニ作ルト古記ニ見ユ
然レドモ此年ニ佐久間氏新タニ尾山ノ字ヲ造リ出スニハアラシ本願寺僧徒ノ長享以來御山ト喝來ルヲ佐久間氏之ヲ忌ミテ古號ノ尾山ノ文字ニ復セシ
三州志來因槪覧附錄卷之一 金城名號來因より
そうしてまた30余年を得て長享元年丁未(1487)の頃、本願寺の信徒が推し崇め加賀の御山と称すと云う。
天正8年庚辰(1580)、佐久間盛政が御山を改め尾山の字にすると古記に見える。
しかしながら、この年に盛政は新たに尾山の字を造り出したのではなく、本願寺の僧徒が長享以来御山と声高らかに呼んで来たのを佐久間氏はこれを忌て、古い呼び名の尾山の文字に戻した。
著者の注記によると石川郡三宮古記に御山の字があるため、本願寺の信徒が御山と呼ぶ以前からそのように呼ばれていた可能性があると記されています。
金澤ノ號ハ按ルニ古ヘノ庄號ノ後ニ國都ノ名ト成タルナラン其故ハ加州ノ古ノ莊名ニ金澤庄アリ金谷門ヨリ蓮池ノ亭地學校邊ヲ云ト也
南敵樓(ヤグラ)ノ下ニ觱沸水アリ古ヘ是ヲ金洗澤ト呼フ後人畧シテ金澤ト云ト也
老人ノ談柄ニ往古芋堀藤五郎ト云者アリ沙金ヲ堀采リテ此澤水ニテ洗フヨリ金澤ノ美號起ルトモイヘリ
三州志來因槪覧附錄卷之一 金城名號來因より
その訳は加州の古の荘名に金沢庄がある。金谷門から蓮池の亭地学校辺りを云うのである。
南櫓の下に湧き水があり、古にこれを『金洗い沢』と呼ぶ。後人が略して金沢と云った。
老人の話の種に大昔、芋堀藤五郎という者がいて砂金を採取してこの沢で洗ったため金沢の美しい呼び名が起きたとも云う。
藩の古録に『文禄元年、前田利長が初めて金沢と号した。』と書かれているようですが、著者はこれを疑問視しました。
金沢源次という人物が文治3年(1187)に存在したことを一つの理由としています。
当時は苗字の概念が無く、居住地を名前の頭に付け呼び分けていたとし、遥か以前から金沢の地名は存在したのではないかと推測。
また、様々の書状に金沢の字が見えることから、前田利長は名付けたのではなく、複名しただけではないかと考えたようです。
金沢城の歴史
當城ノ來因其初メハ暦應康永ノ比火宅僧覺如(親鸞ヨリ三世)北州行脚ノ時當國無知ノ民其宗義ニ心酔スルノ餘リ小刹ヲ今ノ本城ノ地ニ創立ス是ソノ權輿也
三州志來因槪覧附錄卷之一 金城磿主幷城郭中外事蹟より
これがその始まりである。
文明3年(1471)に蓮如が京から北陸地方に入り浄土真宗の教義を広く伝播します。
阿弥陀仏と唱えるだけで救われるという易しい教えは、忽ち民衆に浸透し多くの信徒を獲得することになりますが、この教えは解釈を違うと危険な思想に傾倒する可能性を秘めていました。
百姓只彌陀佛アルコトヲ知テ人主アルコトヲ知ラズ其弊風ニ扇カレ同惡相應シ土寇蝟ノ如クニ起リ賊魁所々ニ割據シ
三州志來因槪覧附錄卷之一 金城磿主幷城郭中外事蹟より
その悪習にそそのかされ結託した土着の賊が群がるようになり、賊の頭が所々に割據した。
戦国時代に多くの大名が手を焼いた一向一揆衆の誕生です。
当時、加賀国の守護であった富樫政親は一揆衆の勢力に脅威を抱き弾圧を開始。
ところが長享2年(1488)、政親は一揆衆とそれに同調した国人等に反撃され命を失ってしまいます。
天正三年乙亥信長公北征アリ南越ニ於テ下間筑後其餘是ニ黨スル賊將數十人戰敗レテ陣亡ス因テ信長公ノ將羽柴秀吉丹羽長秀柴田勝家等直チニ賀州ニ攻入大聖寺敷地山中等ノ諸堡ヲ屠リ能美郡ノ半ヲ畧ス
三州志來因槪覧附錄卷之一 金城磿主幷城郭中外事蹟より
そうして信長公の将である羽柴秀吉、丹羽長秀、柴田勝家らが直ちに加賀国に攻め入り大聖寺、敷地、山中等の砦を破り能美郡の半分を治める。
朝倉・浅井両氏を滅ぼした織田信長は越前国の統治を旧朝倉家臣の前波吉継に命じます。しかし吉継をよく思わない者が一揆衆を扇動し、これを殺害してしまいます。
越前国は一揆衆(本願寺)の手に渡り、当主の顕如は領主として下間頼照を派遣しました。
上記引用文はその直後の事柄です。
八年庚辰信長公ノ命ヲ奉シテ佐久間盛政賀州ヘ攻入リ御山ヲ屠ル賊魁松永以下之ニ死ス因テ盛政御山城ヲ信長公ヨリ賜テ自カラ城繩ヲ攺メ東方ニ塹ヲ堀西町口ヲ正門トシ御山ヲ尾山ト攺メテ居城トス
然レトモ斯時單垜列柵ノミ也ト云傳ヘテ今ノ如ク金湯ノ堅メアルニ非ス
三州志來因槪覧附錄卷之一 金城磿主幷城郭中外事蹟より
そうして盛政は御山城を信長公から頂いて、自ら縄張りを改め東に塹を堀り、西町口を正門とし、御山を尾山と改めて居城とした。
しかしながら、この時は柵を廻らせた小さな砦だったと伝わり、今のように堅固な城ではなかった。
織田信長が本能寺の変で横死すると織田家中は内部分裂し利権の奪い合いが始まりました。
1583年(天正11)、羽柴秀吉が賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を下します。
その際、金沢城城主(尾山城)の佐久間盛政は秀吉に捕らえられ処刑されたため、代わって前田利家が城主に任じられ、爾来金沢は明治に至るまで前田氏の領地として統治されることになります。
公因テ能州七尾城ヨリ當城ニ遷リ玉ヒ高山南坊ニ經始ヲ命シ攺メテ小坂口ヲ正門トナシヽ(?)ヨリ世々相承テ動クコトナシ
(中略)
瑞龍公越中ヨリ金澤ヘ還城アリ再び高山南坊ニ命シテ城堅ヲ修メ城下ノ羅郭ヲナシ内塹ヲ掘シム
三州志來因槪覧附錄卷之一 金城磿主幷城郭中外事蹟より
前田利長公が越中より金沢に戻り、再び高山右近に命じて城を堅くし城下を郭のように取り囲み、内堀を掘った。
キリシタン大名として有名な高山右近は豊臣秀吉の伴天連追放令を受け、土地や財産、身分を信仰のために投げ捨て放浪の生活を送っていました。
前田利家は彼を招き十分な暮らしが出来るよう手厚くもてなします。
金沢城の他に富山城、高岡城(諸説あり)の縄張に関係したと伝わります。
七年壬寅十一月晦日金城雷火ノ爲ニ焼却シテ天守モ灰燼トナレリ
(中略)
明年癸卯春再造落成君夫人等移徙シ玉フ此時天守ハ再造ナク三層敵樓ヲ造ラセラル
三州志來因槪覧附錄卷之一 金城磿主幷城郭中外事蹟より
翌年の春、再建されると夫人たちが移動された。この時、天守は再建されず三層の櫓を造らせた。
築城されてから数年で天守は燃え尽きてしまいました。
幻の天守です。
元和六年庚申十二月二十四日ノ夜金城ニ火アリ
七年辛酉金城ヲ興造ス
三州志來因槪覧附錄卷之一 金城磿主幷城郭中外事蹟より
7年辛酉、金沢城を新たに興した。
寛永八年辛未四月十四日金澤ニ火アリ延燎シテ金城モ之ニ罹ル
是年ヨリ金城造營アリ
三州志來因槪覧附錄卷之一 金城磿主幷城郭中外事蹟より
この年より造営があった。
寶磿ノ災ニ金城中本二三丸石川河北二門ヲ始メ盡トク焼ケテ僅ニ災ヲ脱スルハ金谷殿、七十間長屋、薪丸土庫、玉泉院丸内西口敵樓同所土藏ノミ也
(中略)
文化の災ハ輓近ノコトニテ諸人親タシク知ルコトナレハ其詳記ヲ略ス
三州志來因槪覧附錄卷之一 金城磿主幷城郭中外事蹟より
文化の火災は最近のことなので、皆さんよく知っていることだから詳細は省略する。
慶長7年(1602)、元和6年(1620)、寛永8年(1631)、宝暦9年(1759)、文化5年(1808)。
金沢城、燃えすぎではありませんか?
これだけ災害にあっていれば加賀百万石とは言えども、財政難に悩まされたことでしょう。
幕末の加賀藩は明治政府寄りの考えを持っており、戊辰戦争では幕府軍と敵対しています。
しかし、尊攘派を弾圧した時期があったため、革新的な思想を持った優秀な人材を失ってしまい、薩長土肥のように新政府の中枢に座を占めることは叶いませんでした。
明治期に発布された廃城令で金沢城は存城処分となり陸軍管轄の土地となっています。
城内及城外より屢々火を失した爲めに幾度か改築され來つたが、明治十四年の火災以後再築の必要を認められずなつたので、今は舊容を窺知する事は出來ない。
(中略)
だが今でも老樹多く、本丸の跡の如きは七聯隊の哨兵をして夜の勤務を嫌忌せしむる場處となつてゐる。
大正2年10月27日発行 金澤案内より
江戸時代、散々火災に悩まされた金沢城は役目を終えた数年後、再び火災に見舞われています。
なんて陰鬱な文章か…。まるで心霊スポットを紹介する記事ようです。
終わりに
以上で終了です。
今回の訪問ではゆっくり散策出来なかったので、いつか時間をかけて城内外を観光したいと考えております。
おしまい!