空母飛龍と共に散った海軍中将・山口多門の先祖が守った大聖寺城を散策してきた【石川の旅】

大聖寺城

大聖寺町西端の標高六十七メートルの錦城山に所在する平山城である。『太平記』以降、南北朝・一向一揆の争乱の中に攻防の場として文献にたびたび登場している。

加賀市教育委員会 大聖寺跡 案内板より

大聖寺城跡を散策してきました。

城跡は錦城山公園として保存・整備され、曲輪や土塁、空堀などの遺構が残存し、加賀市の文化財(史跡)の指定を受けました。また江戸時代に置かれた大聖寺藩の陣屋も城跡の一部にあり、藩主の休憩所として建てられた長流亭は国の重要文化財に指定されています。

江戸時代後期に活躍した郷土史家・富田景周の『越登賀三州志』に大聖寺城の歴史が詳しく記されていましたので、引用しつつ他の情報とも照らし合わせながら紹介していきます。

 

大聖寺城の場所

大聖寺城

北陸自動車道・加賀ICが最寄りの高速出口です。錦城山公園に駐車場が併設されています。

また北陸本線・大聖寺駅から歩いて20分程の距離にあります。

 

大聖寺城の歴史

大聖寺城

大聖寺城ト號スル起原ハ往古白山五院中(五院ハ柏野、温泉寺、小野坂、大聖寺、極楽寺、是也)ノ一ニ大聖寺アリ其伽藍即チ此地ニ在シヲ以テ後來ノ地名トナルコト白山記ヲ以テ證スヘシ

富田景周 編輯 三州志 來因概覧附錄卷之三 大聖寺城より

大聖寺城と称する起源は昔、白山五院中の一つに大聖寺があった。
その伽藍、この地にあったため後の地名となることが白山記を以て証拠と出来るだろう。

白山五院は白山を崇める山岳信仰に関連する寺院です。

信奉者らは白山衆徒と呼ばれる宗教団体を結束。次第に軍事力を持ち始め当地の守護を悩ませました。

やがて加賀の一向一揆衆が勢力を伸ばし始めると衰退していきます。

 

大聖寺城

建武二年名越太郎時兼北州ニ潛ンテ加賀越中能登ノ兵ヲ從ヘ皇都ヘ侵攻セントスルニ大聖寺城ニテ敷地上木山岸福田等ノ兵ニ擊レテ亡フト太平記ニアリ

此後津葉五郎清文之ニ據ルノ處暦應元年ニ敷地伊豆守上木平九郎山岸新左衛門等畑六郎左衛門時能ノ招キニ依テ細呂木邊ニ堡障ヲ築キ清文ヲ攻テ此城ヲ陷ス

此後百二十餘年何人之ニ據リケン諸記ニミエス

富田景周 編輯 三州志 來因概覧附錄卷之三 大聖寺城より

建武2年(1335年)、名越(北条)時兼が北陸に潜んで加賀・越中・能登の兵を従え皇都へ侵攻しようとする時に大聖寺城にて敷地・上木・山岸・福田らの兵に討たれて亡くなったと太平記にある。
この後、津葉清文がこれに據るところ、暦応元年(1338年)に敷地伊豆守・上木平九郎・山岸新左衛門らが畑時能の招きに依って細呂木辺りに防壁を築き清文を攻めて大聖寺城を落とす。
この後120余年、誰がここに入城したかは記されていない。

名越時兼は鎌倉幕府の再興を目指し挙兵した人物。官軍に攻められ大聖寺城で討ち死にしたようですね。

新田義貞の臣下である畑時能が当地の有力者を誘い、津葉清文が守る大聖寺城を落城させました。

その後暫くの間、大聖寺城は歴史の陰に隠れます。

 

大聖寺城

文明ノ頃ヨリ加賊横行數十年間羶血乾カス州内ノ堡障大抵賊ノ有タラヌハナシ

弘治元年堀江中務丞景忠兵一千ヲ率テ熊坂奥屋ニ火ヲ放チ山路ヨリ大聖寺へ擊入レハ諸賊追走ス賊首ヲ斬コト六十三因テ朝倉宗滴江沼郡ノ所々ニ放火シテ敷地ニ陣シ朝倉玄蕃景連ハ菅生ニ陣シ藏谷衆ハ(越軍ノ部号)大聖寺ニ陣シ宗滴敷地ニ在コト十有九日數賊を擊ツ然ルニ宗滴病テ越府ニ歸リ朝倉景澄ヲ加州ニ留テ賊ノ戍トス

富田景周 編輯 三州志 來因概覧附錄卷之三 大聖寺城より

文明の頃(1469~1487年)より一向一揆衆の横行が数十年間続き生臭い血が乾かず、州内の砦の大抵は衆徒のいないところはなかった。
弘治元年(1555年)、堀江景忠が1000人の兵を率いて熊坂、奥屋に火を放ち山路より大聖寺へ討ち入り、諸賊を追走して63の首を斬った。
そういうわけで、朝倉宗滴は江沼郡の所々に火を放ち敷地山に陣を敷く。朝倉景連は菅生に陣を張り、蔵谷衆は大聖寺に陣する。
宗滴、敷地山にあること十有九日(19日?)、数賊を討った。
ところが宗滴は病に侵され一乗谷に帰り、朝倉景澄を加賀に留めて賊の抑えとした。

一向一揆は浄土真宗の信徒たちが団結して起こした大規模な一揆です。その構成員は僧侶は勿論、農民から武士まで様々でした。

浄土真宗は『取り合えず念仏を唱えれば救われるよ!』という易宗であることから貧困に苦しむ民から多くの支持を得ます。難しい仏典を読み込まなくても、長い時間座禅を組んで修行しなくても救われるわけですからね。働きながらでも念仏は唱えられますから。

鎌倉時代に生きた祖の親鸞聖人は紛うことなき偉人だと私は思います。ただひたすらに法然上人の教えに従い、自身及び人々が救われる道を模索し続けた人でした。

そんな親鸞聖人の子孫や教化を受けた人々が権力者と血みどろの戦いを繰り広げることになるとは何たる皮肉でしょうか。

厳密に言うと親鸞聖人は浄土真宗を開いていない。

さて、北陸の一向一揆は尾山御坊(後の金沢城)を拠点とし暴れまくります。上の引用文では一乗谷城を拠点とする朝倉氏との戦いが記されています。

文中の朝倉宗滴は某歴史シミュレーションゲームで燦然と輝く有能翁武将の一人です。

一揆勢との戦いの最中、宗滴は病死してしまいます。80歳に近い年齡でした。

大黒柱を失った朝倉氏はみるみるうちに没落していき、織田信長の手によって滅亡させられます。

 

大聖寺城

天正三年信長公能美郡湊河マテ出師先隊ノ將柴田勝家等ヲシテ賀賊征伐有テ檜屋大聖寺ノ二城ヲ修メ戸次右近廣正ヲ置キ佐々權左衛門堀江景忠ヲシテ副守タラシム

然レトモ賊ノ蜂起ヤマス同八年勝家暨佐久間盛政等兵ヲ驅テ大ニ加賊ヲ伐チ拜鄕五左衛門家嘉ヲ以テ大聖寺城ニ置キ同十一年家嘉江州志津嶽ニテ戰死シテ大聖寺城闕ケルヲ以テ同年六月溝口金右衛門秀勝ヲ太閤ヨリ置キ四万四千石ヲ賜ヒ伯耆守ニ叙シ丹羽五郎左衛門長秀ノ麾下トス

富田景周 編輯 三州志 來因概覧附錄卷之三 大聖寺城より

天正3年(1575年)、織田信長公が能美郡湊河まで出兵。先隊の将・柴田勝家らは一向一揆衆の征伐を行い檜屋・大聖寺に二城を改修、戸次広正を置き佐々長穐、堀江景忠を副将にさせた。
しかしながら、賊の蜂起は止まず、同8年(1580年)に柴田勝家及び佐久間盛政らが兵を駆けて大いに賊を討ち、拝郷家嘉を大聖寺城に置き、同11年(1583年)に家嘉が近江国の賤ヶ岳で戦死して大聖寺城の主が欠けたので、同年6月に豊臣秀吉より溝口秀勝を置き、秀勝は4万4千石を賜い伯耆守に叙され丹羽長秀の麾下とした。

朝倉氏と同様に織田信長も一向一揆に大変苦しめられましたが、最後は一揆勢の総本拠である石山本願寺(後の大阪城)を降伏させ鎮めます。

本能寺の変で織田信長が死亡すると豊臣秀吉と柴田勝家が賤ヶ岳の戦いで雌雄を決します。

秀吉によって溝口秀勝が丹羽長秀の与力となり大聖寺城に入城、長秀死後は堀秀政の与力に。堀氏が越後高田に移封されると溝口秀勝も従い越後新発田に移っています。

 

大聖寺城

而して今年山口玄蕃允宗永大聖寺城ニ來リ七万石ヲ賜フ

同五年瑞龍公神兵ヲ以テ大聖寺城ヲ屠リ宗永父子之ニ死ス

公篠原出羽守一孝加藤宗兵衛重廉有賀秦六ヲ置テ此城ヲ守ラシメ

富田景周 編輯 三州志 來因概覧附錄卷之三 大聖寺城より

そうして慶長2年(1597年)、山口宗永が大聖寺城に来て7万石を賜う。
慶長5年(1600年)、前田利長公が兵をもって大聖寺城を落城させ宗永父子が死ぬ。
利長公は篠原一孝、加藤重廉、有賀秦六を置いてこの城を守らせる。
現地説明板によると、山口宗永が大聖寺城に入城した年は慶長3年となっている。

越登賀三州志の著者・富田景周は加賀藩士なので瑞龍公とか神兵などの言葉を用いていますね。

写真は『山口玄蕃頭宗永之碑』です。本丸付近に石碑が建てられる位ですから大聖寺城にとって重要な人物なのでしょう。

石碑の裏に彼について記されていたので少し長いですが引用します。

山口宗永ハ山城國葛野郡下山田ノ人 甚介秀景ノ男 玄蕃ノ允ヲ稱ス

始メ秀吉ニ仕エ而シテ小早川秀秋ニ附ス後居ヲ大聖寺城ニ徙シ邑五萬三千石ヲ食ム

慶長五年関ヶ原役ニテ西軍ニ黨ス 八月三日前田利長師ヲ率イテ動橋ノ南ニ陣ス 先鋒巳ニ大聖寺ニ薄ル

宗永父子躬自ラ矛ヲ揮イテ督戰ス 士卒多ク死傷シ退イテ本丸ヲ保ツ 利長ノ師肉薄シテ登ル

前田利政進ミテ鐘丸ニ乘ス 宗永拒戰力盡キ父子倶ニ自刃シ城遂ニ陷ル時ニ年五十六二子アリ

長ハ即チ脩弘右京亮ト稱シ父ト共ニ死シ次□弘定左馬允ト稱ス 大阪ニ住キ秀賴ニ仕エ木村重成ノ妹ヲ娶ル

元和元年夏重成ニ属シ若江ノ戰ニ井伊直孝ノ兵ト戰イテ八田金十郎ノ爲ニ殺サル

弘定子孫代々松江藩ニ仕エ明治ニ至リ宗永ノ菩提寺全昌寺ニ墓ヲ建ツ

大東亜戰爭中南溟ミッドウェーニテ戰死セル海軍中将山口多門氏亦其後裔タリ

今般有志相謀リ錦城山城跡ニ碑ヲ建テ由來ヲ記シ以テ其ノ義ニ殉ゼシ武烈ヲ永ク後世ニ顯彰セントス

昭和五十一年十一月六日

建設委員会長 ○○○○
撰      ○○○○
書      ○○○○

山口玄蕃頭宗永之碑の碑より

山口宗永は山城国葛野郡下山田の人。(京都府旧葛野郡松尾村か?)甚介秀景の子。玄蕃允と称する。
始めは秀吉に仕え、それから小早川秀秋に付いた後、居を大聖寺城に移し領地5万3千石を得る。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍に組する。
8月3日、前田利長が兵を率いて動橋の南に陣を敷く。先鋒が南南東(?)に大聖寺城に迫る。
宗永父子自ら矛を揮って督戦する。兵士の多くが死傷し退却して本丸を守る。
利長の兵が肉薄して城に攻める。前田利政が進んで鐘が丸に乗り込む。
宗永は拒む戦力が尽き父子共に自害し城は遂に落城する。年齢は56歳で二子があった。
長男は即ち修弘と称し、父と共に死に、次男は弘定と称する。
弘定は大阪に住み豊臣秀頼に仕え木村重成の妹を娶る。
元和元年(1615年)の夏、重成に属し若江の戦いで井伊直孝の兵と戦い八田金十郎によって殺される。
弘定の子孫代々は松江藩に仕え明治に至り宗永の菩提寺・全昌寺に墓を建てる。
大東亜戦争(太平洋戦争)中のミッドウェー海戦にて戦死した海軍中将・山口多門氏もまたその末裔である。
今般有志で計画し大聖寺城跡に碑を建て由来を記し、その忠義に殉じた武烈を永く後世に顕彰する。

文章の主題は後半にあります。

飛龍と共に国に殉じた将・山口多門。彼についての詳細は割愛しますが、相当な傑物だったことは間違いないです。

明治以降の戦争の英雄は一部を除いてあまり表面に出てきません。諸事情があって致し方無いことなのかもしれないですが、私たちの直近の先祖についてもう少し興味を持つ人が増えてもいいと感じています。

良い面も悪い面も鑑みながらバランスを取ってね。

 

大聖寺城

此後守城ノ將名諸記ニ所見ナシ寛永十五年一國一城ノ官命アリ時ニ大聖寺城廢セラルト云

同十六年四月二十日 微妙公カ子テ願アルニ依テ吾封内七万石分與アルヘキノ官命下リ大聖寺ヲ利治君ノ居館ト定メ本多政重横山長知ニ命シテ分臣ノコトヲ監セシム

而シテ同年十月十二日利治君大聖寺ニ入部也建館ノ年月不詳金府ヨリ附属ノ諸臣其頃日々搬宅ス

富田景周 編輯 三州志 來因概覧附錄卷之三 大聖寺城より

この後、城を守った将の名前は記されておらず不明である。寛永15年(1638年)、一国一城令が下り大聖寺城は廃城になったと云う。
同16年4月20日、前田利常公が予ねての願いによって我が領地内の7万石を分与せよとの命令が下り、大聖寺を前田利治君の居館を定め、本多政重、横山長知に命じて分臣のことを監督させる。
そうして同年10月12日、利治君が大聖寺に入った。館が建てられた年月は不詳であるが、金沢より所属の臣下が日々引っ越しした。

数多の戦いの舞台となった大聖寺城はこうして廃城になりました。

一国一城令はもっと早い段階で発布されていたのですが、寛永15年(1638年)とあるのは島原・天草の乱の影響によるものだと思います。この乱で廃城にされたはずの城跡が一揆勢のアジトとして利用されたことから、幕府が『徹底的に城を破壊せよ!』を再び命じたのがこの時期に重なります。

前田利治の大聖寺藩は明治維新まで続き、その子孫は加賀の前田宗家から養子を取りながらも現在まで存続しています。

 

終わりに

大聖寺城

大聖寺城跡には『骨が谷』や『局谷』という場所があります。

両者ともに関ヶ原の戦いでの前田利長による大聖寺攻めに関連する名称です。

前者は激戦地だった『鐘が丸』が接する谷で、多数の戦死者がそこに捨て置かれ骨になるまで放置されたことから。
後者は『本丸』と『鐘が丸』の間にある谷で、落城の際に局たちがここに落ちて自殺したとされることから。

写真の『簪を挿した蛇のスタンプ』は無念の内に亡くなった局たちの霊が蛇になって簪を挿して現れたという伝説が由来となっています。

おしまい!

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