高知県の名前の由来とは?高知城の歴史を調べていたら分かったので紹介する【高知の旅】

高知城

高知城は標高44.4mの大高坂山に築かれた梯郭式の平山城です。現在は高知県が管理する高知公園内にあり一般開放されています。

現存12天守のひとつで、天守と本丸御殿が合わせて残る唯一の城として知られています。高知城にある多くの建造物はその歴史価値が認められ、1950年(昭和25年)に国の重要文化財指定を受けました。

高知城へ登城してきましたので、その風景と共に歴史や高知県の名の由来なんかについて紹介します。

 

高知城へのアクセス

高知城

高知城付近には多数の有料駐車場があります。近くて便利でわかりやすいのは高知公園駐車場です。やや割高ですが、長く滞在しないならこの駐車場でいいでしょう。

JR高知駅からはバスが出ています。電車だと乗り換えがあるそうなので慣れていない方はしんどいかも。時間に余裕があれば徒歩で高知市街を観光しながら向かうのも、また一興。時間が無ければタクシー一択です。

 

大高坂山城の時代

高知城

高知城の前身である大高坂城の築城時期は定かではありません。南北朝時代初期(1336年~)に南朝・後醍醐帝の味方をした大高坂松王丸らが城に立て籠り北朝と争ったと伝わります。

高知市の中央高知公園に在り、昔大高坂山と呼び、南北朝の頃、南朝宮方の有志前守護代河間左衛門次郎光綱、近藤大炊左衛門尉知國、大高坂松王丸、遠江房等の義徒之に楯籠り、北朝武家方の細川律師定禪、佐伯恒貞(俗稱堅田小三郎)、日下三宮氏、須崎津野氏等の兵と戰ひし著名の遺蹟なり。

高知縣史蹟名勝天然紀念物 第一輯 高知市より

後醍醐帝の皇子・満良親王が松王丸らの籠る大高坂城に救援するも、北朝方の攻撃甚だしく大高坂城は落城し、松王丸を始めとする多くの武将が戦死しています。

高知城の南にある【大高坂松王丸の記念碑】は南北朝時代の戦いによって亡くなった人々を供養するために創建された大高坂神社跡です。

 

長宗我部氏の時代

高知城

長宗我部氏は岡豊城を拠点とした土佐の豪族で、その祖先は秦氏と称される渡来系氏族だと伝わります。

戦国時代、1588年(天正16年)に土佐を治めていた長宗我部元親が大高坂山城の跡に城を築きますが、水害に悩まされたため海岸沿いにあった浦戸城へ居城を移します。

降て永禄天正の頃大髙坂松熊此に居り元親、此山の殘壘に城ぎ又周圍に堤防を築き、水害に備へたり。

然るに鏡川の水は、屢々溢れて害をなし、且戰の要害も、餘り宜しからさるを以て、二三年にして、再び浦戸に城を移すに至れり。

土佐國史談 第五 髙知の起原、髙知城の沿革より

時は移って永禄・天正の頃、大高坂松熊ここに長宗我部元親は居た。この山の残塁に城を建て、また周囲に堤防を築き、水害に備えた。
それなのに鏡川の水はしばしば溢れて害を与え、かつ要害としても余りよくなかったので、2・3年して再び浦戸に城を移すに至った。

 

山内氏の時代

高知城

長宗我部元親の跡を継いだ盛親は関ヶ原の戦いで西軍、大坂の陣で豊臣方を味方したことから徳川家康の怒りを買い、息子諸共処刑されました。

長宗我部の血筋は元親の兄弟や息子が生き延び現在まで続いているそうです。

関ヶ原の戦いで長宗我部氏が改易されると山内一豊に土佐国が与えられます。

初め浦戸城に入りましたが、手狭だったため、長宗我部元親が諦めた大高坂山の築城に再チャレンジしています。

石垣造りで有名な近江穴太衆を配下に持つ百々綱家を普請奉行とし築城に取り掛かります。そして、1611年(慶長16年)に三の丸が完成しほぼ全城郭が完成します。

 

高知県の名前の由来について

高知城

城山の名稱は昔大髙坂山と呼び後又鏡川の分流燕尾の如く城山を夾むより河中山と呼ひたりしが山内氏築城後洪水の患度々重なり士民困却一方ならずかくては地名の河水に因める名稱を帯ひたるより其緣起もあしかりなんと慶長十五年築城落成の砌城東五臺山竹林寺の僧空鏡に命じ佳名を選ばしむ空鏡卽竹林寺本尊文殊大士の淨土に譬へたる髙智の二字を選び城山に名付く蓋河内(カウチ)髙智と國音吳音相通ずれはなり是より河中山を改め髙智山といひ後略して髙知山ともいふ城山の名定まると一緒に城下の町を髙知城下の又髙知の町といふ是今日髙知市名稱の起源なり

土佐遺聞録 高知城より

城山の名称は昔、『大高坂山』と呼び、後に鏡川の分流がツバメの尾っぽのように城山を挟んでいる様子から『河中山(こうちやま)』と呼んだが、山内氏が築城の後、度々洪水に苦しめられたため士民は大変困った。
地名が河の水に由来する名称なのでその縁起で悪いのかと、慶長15年の築城完成式の時、城の東にある五台山竹林寺の僧侶・空鏡に命じ縁起の良い名前を選ばせる。
空鏡は竹林寺本尊の文殊大士を引き合いに出し『高智』の二文字を選び城山に名付けた。河内、高智は音が似通っていた。
これより『河中山』を改め『高智山』といい、略して『高知山』ともいう。
城山の名前が定まると同時に城下町を高知城下、高知の町という。
これが今日の高知市の起源である。

とのことです!

 

幕末期の土佐藩

 

高知城

その後、高知城は山内氏によって明治維新まで治められることになります。

幕末期の土佐藩は薩摩藩、長州藩、肥前藩(薩長土肥)と肩を並べ、日本の未来のために躍動しました。そのため多くの傑出した人物を輩出しています。

自由民権運動の板垣退助、その友達・後藤象二郎
志半ばで一緒に暗殺されてしまった坂本龍馬中岡慎太郎
三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎と弟の弥之助
鯨海酔侯と自ら名乗っちゃう土佐藩主・山内容堂(一応、幕末の幕末の四賢侯の一人)

幕末期の話を長くやってしまうとキリがないから、ここでは割愛!

個々の生誕地や墓を訪れた時に歴史背景を書くことがあるので、その際に詳しく触れるかもしれません。

 

終わりに

高知城

1873年(明治6年)の廃城令によって本丸周辺の建造物と追手門を除いて取り壊されました。この翌年、高知城は高知公園として一般に開放されています。

1934年(昭和9年)に国宝指定を受け(旧国宝)、1950年(昭和25年)に文化財保護法が施行されると天守等15棟が重要文化財に指定されます。※これは格下げではない。

そして現在に至ります。

おしまい!

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