肥前の熊こと龍造寺隆信の生誕地と高伝寺境内の墓に行く!【佐賀の旅】

佐賀市にある龍造寺隆信の生誕地と墓に行ってきました。

龍造寺隆信は1529年に肥前国の水ヶ江城で生まれた武将です。龍造寺氏は国人衆として少弐氏に仕えていましたが、隆信の下剋上によって戦国大名まで上り詰めています。肥前国を統一後、更なる勢力拡大を目指し豊後国の大友氏や薩摩国の島津氏と対立するようになりました。

短期間で凄まじい活躍を見せた龍造寺隆信でしたが、1584年の有馬晴信・島津家久との合戦『沖田畷の戦い』で戦死しその生涯を閉じます。

今回は龍造寺隆信の軌跡を紹介します。

 

龍造寺隆信誕生

龍造寺隆信について

龍造寺隆信はこの石碑がある水ヶ江城跡で生まれました。始めは僧侶として育ちました。父と祖父が主君の少弐氏に謀反を疑われ殺されてしまい、曾祖父の家兼は隆信を連れ柳川城の蒲池鑑盛の下に身を寄せます。このとき家兼は90歳を超えるおじいさんでした。

超高齢な家兼は蒲池鑑盛の援助を受け兵を挙げます。お家を滅茶苦茶にしてくれた少弐氏重臣の馬場頼周を討ち取り龍造寺氏を再興させますが、その後すぐに亡くなっています。

龍造寺氏には本家の村中龍造寺と分家の水ヶ江龍造寺があります。

家兼や隆信は分家の血筋でした。家兼死後、隆信が水ヶ江龍造寺を継ぎます。数年後、村中龍造寺の胤栄に嗣子がなかったため、本家も継ぐことになりました。

分家が本家を継いだことを良しとしなかった家臣がいたので隆信は西国の大大名・大内義隆と手を組みそれらを抑え込むことに成功しています。

 

龍造寺氏と大友氏

龍造寺隆信
大内義隆が家臣の裏切りにあい亡くなってしまうと龍造寺氏内の均衡が崩れてしまいます。こうして龍造寺鑑兼擁する隆信反対派と隆信の間で家督争いが始まります。

龍造寺鑑兼は家兼の孫です。隆信は家兼の曾孫なので近いようで遠い親戚ですね。従甥というらしいです。

この争いで立場が悪くなった隆信は幼いときにお世話になった柳川城の蒲池鑑盛の下へ逃げます。そして蒲池鑑盛の協力を得て挙兵、領地奪還に成功します。龍造寺鑑兼は罰せられることなく、その後隆信に仕えています。

家中を統一すると勢力拡大に追走します。その際、かつて主君だった少弐氏をも滅ぼしています。

勢いが止まらない隆信を危惧した豊後国の大友宗麟は肥前へ侵攻しますが、他の勢力との兼ね合いでなかなかうまく行きませんでした。

その後、宗麟は本腰を入れて隆信を攻め滅ぼそうと大軍を送ります。この戦いを今山の戦いといいます。

今山の戦いは圧倒的に隆信が不利でしたが耐え抜き和睦しています。隆信の兵力は5000名、佐嘉城(後の佐賀城)に籠城しました。大友氏は10倍以上の兵力で圧力をかけます。勝てるはずのない戦いを勝利へ導いたのは鍋島直茂が考えた夜襲だったと云われています。

夜襲が成功して局地的にですが大友氏に被害を与えます。これは龍造寺側の士気を大いに高めたことでしょう。長いこと籠城し続け隆信は和睦の使者を送ります。隆信は異母弟の龍造寺信周を人質として差し出し大友氏に従属することで和睦しピンチを切り抜けます。

隆信としてはお家を守り切ったので大成功でしょう。

 

龍造寺隆信について
龍造寺氏は大友氏に従属したのですが、割と自由に地方の国人衆や大名に攻め込んで領地を増やしています。

そして大友氏に大事件が起こります。それは大友氏と島津氏の間で行われた耳川の合戦です。この戦いによって大友氏は著しく戦力が低下し衰退していくことになります。

龍造寺隆信はこのチャンスを見逃しませんでした。大友氏の混乱に乗じて独立、更に領地を増やしていきます。この頃から隆信は島津氏とも対立するようになります。この頃、島津氏と共謀した柳川城の蒲池鎮漣を騙し討ちにし、見せしめのためか鎮漣の一族を皆殺しにしています。

いちのまる
いちのまる

散々お世話になった柳川の蒲池鑑盛の息子を殺して一族皆殺しとは…。

 

龍造寺隆信の最期

龍造寺隆信

それまで隆信に従っていた島原半島の有馬晴信が島津氏と通じ龍造寺氏から離反します。裏切った晴信を攻め滅ぼすため隆信は兵を率いて出陣。そして島津氏も晴信の下へ援軍を送り戦いが始まります。

龍造寺隆信最後の戦いを沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)といいます。兵数は龍造寺氏が有利でした。

森岳城(島原城)を落とすため隆信は島原の北にある沖田畷を突破しようと試みます。

当時、島原周辺は海岸線から前山の裾野にかけて広大な湿地と深田が広がっており、眉山と森岳城(現・島原城)との間にある道も幅が狭く、沖田畷とはその湿地帯を縦貫する畷であり、交通の要衝でした。

長崎県まるまる島原半島 沖田畷古戦場跡より(リンク切れ)

要するにぬかるんでいて戦いにくい場所だったわけです。

龍造寺軍は島津軍を発見し攻撃を仕掛けます。ところが島津軍は敵わないと思ったのか退却のそぶりを見せます。もちろんこれは罠です。島津氏名物『釣り野伏せ』というやつでしょう。湿地に足を捕られ身動きの取れない龍造寺軍は準備万端の島津軍に蹂躙されてしまいます。

この戦いで龍造寺隆信は惨敗し首を取られています。

以上が隆信の軌跡でした。写真の龍造寺隆信の墓は佐賀市の高伝寺にあります。

 

終わりに

沖田畷の戦いで隆信は敗死してしまいますが、龍造寺氏は滅びていません。(本家は断絶したようですが)

しかしながら、龍造寺氏の支配力は衰えていき隆信と義兄弟の間柄であった鍋島直茂が力を持っていくことになります。

そして龍造寺を押しのけて直茂の息子・勝茂が初代佐賀藩主になっています。

鍋島直茂は隆信に恩義を感じていたため龍造寺氏を蔑ろにすることはありませんでした。もちろん統治するために龍造寺氏の支配力を抑え込んだでしょうが、それは仕方がないことだと思うのです。

鍋島直茂については↓

おしまい!

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