長宗我部氏代々の居城・岡豊城へ!土佐物語を読んで【高知の旅】

岡豊城

岡豊城は高知県南国市にある標高97.5mの岡豊山に築かれた連郭式の山城です。『おこう』と読みます。

この岡豐と申すは、往古の名にあらず。此城を築きて、長岡の府なれば國府といへり。然るに府の字を豐饒の豐に書代へたるは、此山の西の尾に、豐岡上神社御坐す故に、豐の字を申請けて、米穀豐穣萬民快樂を祝せられたり。於加布とは假名訓なり。

土佐物語 国史研究会蔵版 巻第一 長宗我部の事

この岡豊と申すのは、昔からの名前ではない。この城を築いて、長岡の府となれば国府といえる。そうであるから府の字を豊饒の豊に書き換えたのは、この山の西の尾に、豊岡上神社が鎮座されている故に、豊の字を受けて、米穀豊穣・万民快楽を祝わせた。於加布は訓仮名である。

豊岡ではなく岡豊にした理由はわかりませんが、まぁいいや。

岡豊城は戦国時代に土佐国を統一、四国の殆どを一時的に制覇した長宗我部元親の居城として知られています。

さて、この城にどのような歴史があるのか?その風景と共に紹介致します。

上で引用した土佐物語は信憑性が低いといわれる古文書です。
ですが、この記事では主に土佐物語を引用して話を進めて行きます。他に頼るものがありませんでした。

『本当のところはどうなの?』と気になった方は御自分で調べてみてください。

きっと険しい道のりが待っているでしょう…。

 

岡豊城へのアクセス

岡豊城

自家用車でしたら高知自動車道の南国ICを下りて突き当りを右折します。国道32号線をしばらく走り【高知県立歴史民俗資料館】の案内板がある信号を右折、また案内板があるので今度はその信号を左折です。

そのまま道なりに進めば【岡豊城跡】の看板が出てきます。駐車場完備です。

公共交通機関を利用するなら高知駅からバスが出ています。行先は【南国オフィスパーク、領石、田井】方面で下りるバス停は【学校分岐】です。【学校分岐】のバス停から少々歩きます。

 

岡豊城の歴史

岡豊城

岡豊城の築城年、及び築城者についてはわかっていません。

川勝二十五世の孫秦の能俊、土佐國長岡郡にて三千貫を領し、宗我部村岡豐山に城を築きて入城して、氏を宗我部と改む。然るに同國香美郡にも宗我部といふ所ありて、領主をも宗我部某と號しければ、其疑ありとて、長岡郡にあるを長宗我部と稱し、香美郡にあるを香宗我部とぞ申しける。

土佐物語 国史研究会蔵版 巻第一 長宗我部の事

川勝の25世の孫・秦能俊、土佐国長岡郡にて3000貫を領し、宗我部村岡豊山に城を築いて入城して、氏を宗我部と改める。
ところが同国香美郡にも宗我部をいう所があって、領主も宗我部某と名乗れば、ややこしいので、長岡郡にあるのを長宗我部と呼び、香美郡にあるのを香宗我部といったそうだ。

これによると長宗我部氏の遠い先祖である秦能俊が岡豊城を築いたと書かれています。平安時代後期から鎌倉時代前期の頃だとされています。

 

岡豊城

土佐物語には秦能俊より以前の先祖についての記述もありますで引用しましょう。

これには様々な説があり、未だ答えの見つかっていない、そして恐らくこれからも正確な答えは見つからないであろう歴史のひとつですが、なかなかスケールが大きくてロマンのある内容になっています。

彼の長宗我部兵部丞文兼が先祖を委しく尋ぬれば、秦の始皇帝四世の孫功滿王、仲哀天皇八年に來朝、其男融通王又弓月王とも號す。應神天皇十四年に來朝、其男眞德王、仁德天皇の御宇に姓を賜はり、波多といふ。今の秦の字の訓なり。眞德王九代の孫、秦の川勝に至る。用明天皇二年七月、厩戸の王子、守屋の大連を討罰の時、川勝大きに軍功あり。

土佐物語 国史研究会蔵版 巻第一 長宗我部の事

かの長宗我部文兼が先祖を詳しく尋ねれば、秦の始皇帝の四世の孫・功満王、仲哀天皇8年に来朝、その男は融通王または弓月王とも称する。
応仁天皇14年に来朝、その男を真徳王といい、仁徳天皇の時代に姓を賜り、波多という。今の秦の字の訓である。
真徳王から九代の孫、秦川勝(河勝)に至る。用明天皇2年7月、厩戸皇子(聖徳太子)、物部守屋を討伐したとき、川勝が大いに活躍した。

えっ?秦の始皇帝の子孫?!!

 

岡豊城

秦(長宗我部)能俊が土佐国長岡郡に入り、誰が築いたのかはわからないけれど、長宗我部氏は代々岡豊城を居城とします。

南北朝時代には足利方(北朝)の味方に付き、土佐国守護の細川氏の下で南朝勢力と戦っています。

応仁の乱(1467年~1478年)の混乱期に五摂家の一条教房が土佐国幡多荘に避難してきたので、土佐の国人たちはこれを盟主として迎え入れています。

戦国時代初期の土佐国は盟主の一条氏の下に土佐七雄と呼ばれる国人らが土地を分割し治めている状態にありました。七雄の一角にあった長宗我部氏ですが、貫高は最低でした。それでも細川氏や一条氏の後ろ盾があったためそれなりの権力を保てていたらしいです。

 

岡豊城

第19代当主・長宗我部兼序の代に事件が起こりました。時代は15世紀後半~16世紀前半です。

周辺豪族の本山氏、山田氏、吉良氏、大平氏がタッグを組み『打倒!長宗我部』を掲げ岡豊城に攻め込んできます。長宗我部兼序は優秀な武将だったそうですが多勢に無勢、城は落城、兼序は自刃に追い込まれました。

攻撃の理由は『あいつ調子に乗ってるから皆で攻め滅ぼそうぜ!』みたいな感じです。

この背景には中央の権力を握っていた細川政元が暗殺される事件があります。永正の錯乱と呼ばれる暗殺事件によって、圧倒的な力を持っていた細川氏は衰退していきます。

影響は地方にも及び、細川氏によって監視されていた各地の統制が破綻し、他にも樣々な要因はありますが、有力な豪族らが独立を目指すことで群雄割拠の戦国の世が到来します。

 

岡豊城

汝は譜代相傳の者といひ、年來千翁丸を守立てしといひ、其身甲斐々々しき者なれば、千翁丸を抱き、いかにもして重圍を出で、一條殿へ參り、兼序武運盡きて、此度討死仕候最後に申置き、此子を君へ參らせ候と申せ。

土佐物語 国史研究会蔵版 巻第一 本山傳記幷岡豐城攻の事

『汝(家臣の近藤某)は代々長宗我部に仕えてきた家臣といい、何年から前も千翁丸を守り育てたといい、真面目で一生懸命な者だから、千翁丸を抱いて、どうにしてでも敵の包囲から抜け出し、一条殿のところへ参り、兼序は武運が尽きて、このたびは討ち死に致す所存、最後の申し置きで、この子を貴方のもとへ参らせました。』と申せ。

千翁丸(千雄丸?)は無事に中村城の土佐一条氏のもとに辿り着き、そこで育てられた後に岡豊城主として復帰しています。

彼の名を長宗我部国親といいます。

兼序は自害せず、後に岡豊城主に返り咲き国親に家督を譲ったという説もあるようです。

 

岡豊城

岡豊城に戻った長宗我部国親は吉田周孝(孝頼)という智謀勇猛の士を傘下に入れ、内政と外交に奔走しました。

その後の快進撃が半端ないです。

・敵だった本山氏と婚姻同盟。父が敵対した他の豪族らと良好な関係を持つ。
・大津城主・天竺孫十郎を攻め滅ぼす。
・介良の庄・横山九郎兵衛を降参させる。
・下田城を火攻めし下田駿河守を討ち取る。
・栗山城の細川定輔・池頼和親子を懷柔。
・香宗我部氏に三男を養子縁組させ従属化。
・土佐山田城主の仇敵・山田氏を滅ぼす。
・婚姻同盟を結んだ本山氏の当主・茂宗が亡くなると本山攻めを開始する。

そのまま土佐国を統一してしまうのではないかという勢いでしたが、本山氏を攻略している最中に国親は病死してしまいます。

ここでようやく戦国大名・長宗我部元親が登場します。

 

岡豊城

(長宗我部氏の話になってる。岡豊城についての記事なのに…。)

とういうわけで、長宗我部元親の生涯、及び長宗我部氏のその後については彼に関する史跡(お墓など)に訪問したときに書くことにします。でも、これで終わると尻切れ蜻蛉になってしまうので、ざっくりと後談と岡豊城の最後を紹介して終わりましょう。

元親はこのままの勢いで土佐国を統一し、四国までも殆ど平らげるという快挙を成し遂げます。

しかし、戦国の覇者・豊臣秀吉が黙っていませんでした。秀吉は四国に大軍を送り長宗我部討伐を行います。元親は抵抗するも戦力差は明らか、勝てるわけがありません。敗北してしまいます。

命を奪われることはありませんでしたが、攻め取った四国の国々は秀吉に分捕られ、安堵された領地は土佐国ただ一国でした。

秀吉に臣従した元親は、四国征伐の翌年に行われた九州征伐(島津攻め)に嫡男の信親を連れ出陣します。

秀吉の部下である仙石秀久らと共に豊後国(大分県)に渡り、大友氏の援軍として戸次川で島津軍と対峙。これが悲劇に終わります。

元親は将来有望とされてきた信親をこの戦いで失い、かつての覇気を失ってしまいました。

 

終わりに

岡豊城

宮内少輔元親、如何なる思惟にかありけん、數代住馴れし岡豐の城を改めて、大高坂へ移さるべしとて、天正十二年の頃より、其催ありしかども、世の急激に押移りて、暫は沙汰もなかりしが、同十五年には事極りて、大高坂山に城を築き、國澤に町家を立て、翌十六年の冬、城移りありければ、士はいふに及ばず、商家民屋を毀ち、資財雑具を持運べば、岡豊は忽に、冬野が原と寂び返り、國澤は暫時に花の都をなせり。

土佐物語 国史研究会蔵版 巻第十五 城替の事

長宗我部元親、どのような思いがあったのだろうか、数代に亘って住み慣れた岡豊城を改めて、大高坂へ移すべきと、天正12年の頃から、その動きがあったけども、世が急激に流れ移ったため、しばらくは何もなかったが、同15年になって、大高坂山に城を築き、国沢に民家を建て、翌16年の冬、城替えがあり、武士はもちろん、商人や住民の家を壊し、引っ越しすれば、岡豊はたちまちに、冬の野原のように静まり返り、国沢はしばらくの間、花の都となった。

文中にある大高坂山は現在の高知城がある場所です。

結局、大高坂城は水害に悩まされ2年程で桂浜のすぐ近くにある浦戸城へ移動しました。関ヶ原の合戦の後、土佐国に入封した山内一豊が高知城を築き明治維新までこの地を治めることになります。

岡豊城は『冬野が原と寂び返り』とあるように廃城となり、再び使われることはありませんでした。

おしまい!

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