愛媛県宇和島市にある宇和島城跡に行ってきました。
宇和島城は標高約80mの小丘に築かれた梯郭式平山城です。旧名を板島丸串城と云います。
天守は日本全国に僅か12棟しか残っていない現存天守の一つで、大変貴重な建造物であることから国の重要文化財に指定されています。また、宇和島城自体が国の史跡、城山南側の登城口にある上り立ち門(今回は見れなかった)が市指定有形文化財に指定されました。
遅い時間の訪問だったため、天守に入れず仕舞い、且つ周囲の探索も出来ませんでした…。
それでは少ない風景写真と共に宇和島城の歴史を紹介致します。
宇和島城へのアクセス
自動車ですと、北から向かうなら宇和島道路・朝日IC、南からなら宇和島道路・坂下津IC(宇和島南ICの方がわりやすい?)が最寄りの出口です。駐車場は下の地図にある市営城山下駐車場が近くて便利かな。
公共機関を利用なら宇和島駅で降りましょう。バスが出ていますし、徒歩20分程の距離なので街並みを眺めながら散策するのもよいかもしれません。
詳しくは【宇和島市観光ガイド 宇和島城】を見てください。
宇和島の名の由来
宇和島という地名の歴史はそれ程深くないようです。古来よりこの一帯は宇和郡と呼ばれ、その中に板島と称される場所がありました。そして江戸時代初期に板島から宇和島に改称されたと伝わります。
宇和の語源は諸説あるようです。幾つか紹介します。
縣社宇和津彦神社祭神御履歴書
宇和津彦命、此の命は舊記の傳ふる所に依れば、景行天皇の御子國乳別皇子の御事なり當時皇子は宇和の別(別皇子の在す所にては國造縣主は其の下に立てるものなり)の任を此の僻地の地に受け給ひ、備に辛酸を甞め地を拓き民を牧して能く我が宇和郡經綸の偉績を収め給ひき、
(中略)
抑も亦皇子が披榛啓發の遺勲に基くもの尠少ならざるべし古來一宮と崇め奉りて日夜其の恩賚を閑却せざりしもの宜なりと云ふべし、
愛媛教育協會北宇和部會 北宇和郡誌 伊達秀宗入國前より
当時、皇子は宇和の別(別皇子のいるところでは国造の県主はその下に立てるものである)の任をこの僻地に受け、もれなく辛酸を嘗め地を拓き、民を治めて念入りに我が宇和郡統治の功績を収めて、(中略)
そもそもまた、皇子が困難を超え啓発した功績に基づくものは少なくないと、古来より一宮と崇め奉りて、日夜その御霊を忘れてはならないというのはその通りである。
宇和津彦命が関係しているという説です。これは神話の域。
兎をヲサギ(古語也)と云ひ、鰻をヲナギと呼び、宇和をヲワと称ふることを知り、始めて(初めて)研究の端緒を得、専らヲワに就いて研究の歩を進め、とうとうヲワは峰曲(ヲワ)、又峰輪(ヲワ)である、宇和は峯(?)曲の借字であることに気が付いた。
(中略)
前述の如く、ヲワのヲは峰である、即ち山である、ワは曲、又輪である、曲と輪はクルワ(郭)である、クルワは轉(転)曲の義で、周囲をかこむこと又は外がこひと云う事である、故に峰曲(ヲワ)は山峰を以て周囲をかこむ地と解して支障のないものと思ふのである。
西園寺源透 著 伊予史談101号 宇和郡考
兎をヲサギといい、鰻をヲナギと呼び、宇和をヲワと称することを知り、初めて研究の端緒を得て、専らヲワについて研究の歩みを進め、とうとうヲワは峰曲、または峰輪である、宇和は峰曲の借字であることに気が付いた。
(中略)
前述のように、ヲワのヲは峰である、すなわち山である、ワは曲、または輪である、曲と輪はクルワ(郭)である、クルワは転曲(?)の意味で、周囲をかこむこと、または外囲いということである、故に峰曲(ヲワ)は山峰をもって周囲をかこむ地と解して支障のないものと思うのである。
これは現在見ることが出来ないサイトから孫引きした文章です。(ウェブ魚拓から見れました)
このサイトには宇和島の旧名である板島についても触れています。板島の語源はわからないとしつつも、かつてこの地(伊予国)に但馬という者がいて、それが『伊予の但馬』→『いよ・たじま』→『い・たじま』なんていう面白い説があると紹介していました。
上記の二説以外にも『宇和=上(ウワ)』説や『伊和、於和』に関連付けている説がありました。(後者については意味がわからなかった…。)
詰まるところ宇和の語源はハッキリとわかっていないということです。
宇和島城の歴史
純友遁れて伊豫に歸る、翌年七月警固使橘遠保の爲めに捕へられ其首を京師に送らる、遠保功を以て宇和郡を賜はる。
愛媛教育協會北宇和部會 北宇和郡誌 伊達秀宗入國前より
天慶2年(939年)から始まる藤原純友の乱で純友を討ち取ったと云う橘遠保に宇和郡が与えられています。
師守記という古文書に事の経緯が書かれているようですが、私には読めませんでした。
廿二日 巳酉 伊豫國宇和郡事止薩摩守公業法師領掌所被付于常盤井入道大政大臣家之領也是年來彼禪閤雖被望申之公業先祖代々知行就中遠江樣遠保承勑定討取當國賊是純友以來居住當郡令相傳子孫年久
吾妻鑑 第卅一巻 嘉禎二年 二月大より
伊予国宇和郡の事。橘公業の支配権を止め、西園寺公経の領家が統治することになった。このことは西園寺氏が前から望んでいたが、橘公業の先祖が代々知行する土地であった。
その中でも橘遠保は天皇からの命令で、当国の賊徒・藤原純友を討ち取って以来、当郡に住み、子孫に伝え長い時間が経った。
橘遠保が藤原純友を討ち滅ぼし宇和郡に住み、子孫が続いたと書かれています。(橘公業の先祖に関しては諸説あり!)
その後、橘氏に代わって西園寺氏が宇和郡を支配しました。西園寺公経はかなり強引に、半ば奪い取るようにして橘氏から領地を得たようです。
宇和郡の地頭職を得た西園寺氏は松葉城を居城とし、後に黒瀬城へ移動しました。(両城とも西予市宇和町にあります。)
此頃に於ける宇和郡の諸將左の如し。
西園寺公廣
黒瀨、我合、岡城、土居、鴟巣、五ヶ所の城主、御手先百二十騎
御庄殿 五千石
勸修寺左馬頭基詮(清良記には基章とあり)
大森、本城、綠城、新城、猿越、四ヶ所の城主、手勢三十三騎
津島殿 壹万石
津島三郎通孝(後越前守と號す)
津島城主(初め釋迦森城後に天ヶ森在城) 手勢四十九騎
板島殿 六千六百石
西園寺宣久
丸串城、手勢二十五騎
(後略)
愛媛教育協會北宇和部會 北宇和郡誌 伊達秀宗入國前より
原典は記されていませんが、恐らく清良記や予陽河野家譜を基にして書かれたものでしょう。時期は1575年前後です。
『板島殿 六千六百石 西園寺宣久 丸串城、手勢二十五騎』
これが宇和島城の前身となる板島丸串城です。この城が初めて史料に現れるのはもう少し前のことで、西園寺配下の家藤監物が城主だったと記されているそうです。(多分、清良記に書かれているのでしょうが、確認出来ていません。)
長きに渡って宇和郡を治めた西園寺氏は戦国時代に入ると徐々に没落していきます。
天文十五年 三月西園寺實光其臣山田治元を土居に遣はし土居宗雲(清宗)をして石城(立間、現今は立間尻に屬す)の主たらんこと勸む、これ當時豊後の大友義秋屢々兵を出して宇和郡を侵畧せんとしを以てなり、
(中略)
仝年五月大友義鑑、臼杵七郎、此次六右衞門を將として軍船三十餘艘を率ゐ來り侵さしむ、
愛媛教育協會北宇和部會 北宇和郡誌 伊達秀宗入國前より
同年5月、大友義鑑、臼杵七郎、此次六右衛門を将として軍船30艘余を率い攻めなさった。
西園寺氏は土佐の一条氏、豊後の大友氏、伊予大洲城の宇都宮氏などとの合戦で疲労していき、遂には土佐を統一し四国を平らげる勢いの長宗我部元親に屈服、その後すぐに長宗我部元親も豊臣秀吉に敗北し傘下に入ると、伊予国は毛利氏の小早川隆景に与えられたため西園寺氏はその支配下に入ります。
九州征伐後に小早川隆景は北九州へ移封し、宇和郡には戸田勝隆が入封しました。戸田勝隆は喜多郡の大洲城を本拠としたと云います。
一 丸串城主の事、清良記には家藤監物信種、後西園寺信久、又後戸田與左衞門信家とあり、此戸田與左衞門は天正十五年八月城代に被參の由、
宇和舊記 板島殿より
清良記によると天正15年8月(1587年)に板島丸串城(宇和島城)に戸田与左衛門信家という人物が城代になったと記されています。
四国平均之時、公廣も身をせばめ、九島鯨浦願成寺に居住し給ふとなり。
清良記には、天正十五年十二月十一日郡内戸田駿河守の亭にて公廣も切腹し給ふとあり。
宇和舊記 板島殿より
清良記には、天正15年12月11日に郡内の戸田駿河守の亭で公廣が切腹されたとある。
戸田氏入封後、西園寺氏の当主であった公広は不幸な最期を遂げ、西園寺氏は滅亡します。戸田勝隆は苛政を以て西園寺の旧領を統治したそうです。反乱分子の芽を摘むために公広は謀殺されたのでしょう。
その戸田勝隆も嗣子無くして朝鮮出兵時に陣中で病に斃れたため断絶してしまいます。
文祿三年 藤堂和泉守郡内及宇和を領知し大津城に入る、(聿修錄には四年六月十九日宇和島七万石に封ずとあり)時に板島を改めて宇和島となす、入部以來國法正しく諸民悦服せり、然るに慶長十三年伊勢阿濃津へ轉地となる、
慶長十四年 富田信濃守信高宇和郡を領し宇和島に入る、仝十八年岩見津和野城主坂崎直盛と爭ふ、幕府之を裁し信高を改易に處す、其の封を奪はる、
慶長十八年 宇和郡は幕領となり藤堂高虎之を預かる、仍て仝姓新七郎を奉行として宇和島城に入らしむ、
慶長十九年 十二月伊達政宗子遠江守秀宗宇和郡を領し元和元年三月宇和島城に入る、
愛媛教育協會北宇和部會 北宇和郡誌 伊達秀宗入國前より
慶長14年(慶長13年か?)、富田信高が宇和郡を領し宇和島に入る、慶長18年に津和野城主・坂崎直盛と争い幕府がこれを裁き信高を改易に処す、その領知を奪う、
慶長18年、宇和郡は江戸幕府の領地となり藤堂高虎がこれを預かる、そこで藤堂新七郎を奉行として宇和島城に入らせる、
慶長19年、12月に伊達政宗の長男である秀宗が宇和郡を領し、元和元年(1615年)3月に宇和島城に入る、
現在まで残る城郭の縄張、初期天守の築城、そして改名。これらは藤堂高虎によって為されました。因って宇和島城の産みの親は高虎ということになります。
その後、紆余曲折あって伊達政宗の長男・秀宗に宇和島が与えられ、明治時代の版籍奉還に至るまで宇和島伊達氏が治め、その後華族に列せられました。その血脈は現在まで受け継がれているようです。
幕末に目立った活躍した4名の大名を総称して四賢侯と呼びますが、9代目・伊達宗城はその一人に数えられています。
[aside]他3名は福井藩の松平春嶽、土佐藩の山内容堂、薩摩藩の島津斉彬です。[/aside]
伊達宗城についても詳しく紹介したいところですが、かなり長くなってしまいそうなので割愛。また、宇和島に訪問して彼に纏わる史跡を巡ることがあればその時に書こうと思っています。
終わりに
宇和島市は太平洋戦争末期に幾度かの空襲を受け多大な被害に遭っています。
その際に当時国宝だった大手門が焼失してしまいました。奇跡的に天守は戦災を免れ現在にその姿を残しています。
宇和島城天守に限らずですが、日本の象徴的建築物として私たちのいない後の世まで、末永く残り続けて欲しいものです。
おしまい!