国の指定史跡の大友氏遺跡と豊後国大友氏の歴史について【大分の旅】

大友氏遺跡は豊後国の守護所や大友氏の菩提寺、居住地の跡地の総称です。

メインの守護所跡は大友氏館と呼ばれ現在(2017年2月)発掘調査をしている最中です。

大分市が10年後に館跡を復元しそこで博物館を運営するという風の便りを聞きましたが、どうなんでしょう?

さて、今回は大友氏遺跡の現在の様子と豊後大友氏の歴史について紹介します。

 

大友氏遺跡(館)へのアクセス

別府方面から国道10号線を走り顕徳町三丁目を斜め右に入ります。

そしてすぐ右に曲がり直進すると到着です。大分駅から歩いていけないこともないですが10分から15分はかかると思います。詳しくはgooglemapを見てください。

豊後国大友氏の祖・大友能直について

大友氏館

大友氏館跡の発掘現場。

大友氏の起源は鎌倉時代初期に活躍した大友能直。彼は源頼朝のお気に入りで近習として活躍しました。1196年に豊前・豊後の守護となり大友氏の礎を築きました。能直の出自は二説あります。

1.相模国の近藤能成と利根局(波多野氏)の間に生まれる。父が亡くなったあと母の姉婿である中原親能の猶子(養子みたいなもん)になる。母方の相模国大友郷を引き継いで大友氏を名乗るようになった。

2.上野国利根荘出身の大友(波多野)経家の娘の利根局と源頼朝の間にできた隠し子として生まれる。母の姉婿である中原親能の猶子(養子みたいなもん)になる。母方の相模国大友郷を引き継いで大友氏を名乗るようになった。(群馬県沼田市は波多野一族が沼田氏を名乗り治めていた時期があるとのこと。)

群馬県出身で沼田に縁がある私としましては後者の説にロマンを感じるのですが前者の方が有力説みたいです。同時期に豊後国大野郡から上野国沼田に流された緒方惟栄もいるので大分県と沼田氏はなんか縁があります。

 

南北朝時代の大友氏

大友氏館

1333年、足利尊氏や新田義貞らの手によって鎌倉幕府が滅び後醍醐天皇の新政が始まります。これは表面上公家と武家を平等に扱うものでしたが実際にはそうならず直ぐに破たんしてしまいます。そして共に『打倒!鎌倉幕府』とスローガンを掲げ戦った足利尊氏が新政府から離反してしまいます。

尊氏は新政府側と戦いますが新田義貞・北畠顕家率いる新政府軍に豊島河原の戦いで大敗し九州に逃げ落ちます。この際に大友氏は尊氏を守り挙兵の手助けをしました。当時の当主は7代目大友氏泰です。

氏泰の『氏』は尊氏から偏諱を賜い、さらに猶子になることを認められ、これ以降大友氏は源氏を名乗れるようになりました。『助けてくれたからそうしたのか?』『助けてもらうためにこうしたのか?』どっちなんでしょうね?

日本のTOPが南(後醍醐天皇)と北(足利尊氏)に分かれた時代を南北朝時代と呼びます。これにより全国の統治者らは混乱陥り大友氏も例外ではありませんでした。

当初は幕府を助けた立場であった大友氏でしたが九州は南朝方に付く勢力が多く9代目の大友氏継は南朝派に担ぎ上げられ当主になりました。しかし弟の大友親世(10代目)は北朝派に残り当主になったため内部紛争が起きてしまいます。

この内紛は室町時代後期から戦国時代に活躍した15代目の大友親繁まで続くことになります。

 

戦国時代の大友氏

大友氏館

大友氏菩提寺の万寿寺跡。

戦国大名としての地位を確立させたのは18代目の大友親治と義長(19代目)父子です。彼らは足利将軍に近づき大内氏などが絡んだ内乱を上手く治め筑後国、豊前国、豊後国の守護を任せられました。

 

大友宗麟と二階崩れの変

大友氏館

大友氏遺跡体験学習館。

豊後大友氏といえば必ず名が挙がる人物といえば21代当主の大友宗麟(義鎮)でしょう。彼が当主になったきっかけは大友氏お家騒動の『二階崩れの変』です。

経緯は宗麟の父・大友義鑑が溺愛していた三男の塩市丸を次期当主に挙げようとしたことから始まります。それに反対した重臣は小佐井大和守、斎藤長実、津久見美作、田口鑑親らがいて彼らは後継者に宗麟を押しました。そこで義鑑は入田親誠と共謀して宗麟派を粛清し始めてしまいます。

義鑑と親誠は宗麟派に登城を要求し応じた小佐井大和守、斎藤長実を誅殺します。しかし危険を察知した津久見美作、田口鑑親両人は登城を拒否し『どうせ殺されるなら…。』と大友館に忍び込み塩市丸、その母と妹を殺害。

主君の義鑑もこのときにケガを負い数日後に死亡してしまいます。入田親誠はこれを知り肥後大名の阿蘇惟豊のもとへ逃走するがやり方が気に食わなかったのか阿蘇惟豊に殺されてしまいます。

この事後処理に宗麟を支持した戸次鑑連(立花道雪)が活躍。道雪は瞬く間に家中をまとめ上げ大友氏の混乱を見事に解消します。宗麟はこのことがあってか生涯道雪に頭が上がりませんでした。

 

大友氏、全盛と衰勢

大友氏館

大友氏の住居跡、上原館。

大友氏は宗麟の時代が全盛期であり衰勢期でした。北九州の大内義隆が陶隆房の謀反によって殺されると隆房の要請で弟の大友晴英を大内氏の当主として送り出します。これにより北九州の権力を掌握します。※宗麟や晴英の母は大内氏の一族。

そして肥後国(熊本)の菊池氏を滅亡させ領地を手に入れます。また幕府と密に関係を保ち九州探題に任命されたりもしています。

中国地方の毛利氏が大内氏を滅ぼしたあたりから大友氏が辛い立場に置かれていきます。毛利氏は北九州に狙いを定め大友領に度々ちょっかいを出してきます。門司城の戦い(1562年)では毛利氏に門司城を奪われ窮地に立たされます。この戦いの結果は幕府の仲介で和睦が成立します。しかし毛利氏は出雲国の尼子氏を滅亡させると再び北九州へ侵略してきます。

 

大友氏館

また肥前国(佐賀辺り)の龍造寺氏や薩摩国(鹿児島)の島津氏と度々争うようになりますます悪い立場に陥ってしまいます。特に島津氏との耳川の戦い(1578年)で大敗し多くの重臣を失ってしまいます。このときは織田信長を頼り和睦の道を探ろうとしていたようです。

周辺の国人衆は衰退の一途を辿る大友氏から徐々に離れてしまいます。領地がどんどん削られ窮地に追い込まれる宗麟ですが、1584年に島津氏と龍造寺氏の間に起きた沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討ち死にすると立花道雪や高橋紹運を筑後国に送り領地奪還を狙い成功させます。

ところが1585年に大友氏の大黒柱・立花道雪が病死すると島津勢が一気に大友領へ攻め込んできます。北上してきた島津軍は筑前国の岩屋城や宝満山城を落とし立花山城を狙います。

岩屋城の戦いはとくに有名で約700人で数万の兵を引き付け時間稼ぎをする高橋紹運の戦いっぷりは凄まじく敵味方関係なく称えたようです。まぁ、全員討ち死にしましたけど…。

肥後路から侵入してきた島津義弘は岡城の支城を次々落とし更に北へ軍を進めます。岡城はあまりに守りが堅かったため落とせませんでした。

さて、このとき大友宗麟はどうしていたかというと…。豊臣秀吉に助けを求めに行っていました。毛利のときは将軍、耳川合戦後は織田、豊薩合戦(島津北上)の際は豊臣秀吉と時の最高権力者を上手につかっていますね。実際、豊薩合戦では秀吉の援軍が来て九死に一生を得ています。

 

大友氏のその後

大友氏館

大友宗麟は島津追討中に病気で死去してしまいます。

息子の義統が跡を継ぎ(厳密にいうとすでに宗麟は引退していた)豊臣家の家臣として活躍します。しかし朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で誤報に騙され味方を見捨てたため改易になってしまいます。

1600年の関ヶ原の戦いで挙兵し西軍に付き大友氏再興を豊後の地で狙います。緒戦は国東半島の城を落とすなど良い兆しが見えましたが東軍の黒田官兵衛、細川忠興の家臣らが攻めてくると経験の差が出たのか敗北し降伏、幽閉されてしまいます。

義統の息子・義乗は徳川家康に仕えていたので大友氏は何とか存続することができました。しか義乗とその息子義親は若くして亡くなってしまったためここで大友氏嫡流は断絶してしまいました。※嫡流以外は続いたらしいです。今はどうだか知りません。

 

終わりに

当分の間は大分にいるつもりなので大友氏について触れることはまだまだあるかと思います。

今回は案内板やネットで調べただけなのでありがちな記事になっていますが、もっと情報を集めてこの記事を充実させる所存です。古文書も探せばたくさん出てきそうなので頑張ります!

おしまい!

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