足利尊氏、黒田官兵衛、宮本武蔵と縁がある?富来城跡について【大分の旅】

富来城跡

富来城は足利尊氏、黒田官兵衛、宮本武蔵などの著名人と縁があるとのこと。

それぞれどういった関連があるのか気になったので訪問して調べてみました。

 

富来城について

富来城跡

富来城は1261年(鎌倉時代)に永井実貞が国東半島の富来に築城したとされています。

永井実貞は豊後大友氏の祖・大友能直が相模国(神奈川県)から下向した際に追随してきた鎌倉御家人で後に地名の富来を名乗るようになったようです。

といったものの詳細は不明です。

永井実貞とは全く関係のない土着の永井氏が築城して富来氏を名乗ったのかもしれません。これらについては情報が無さ過ぎてお手上げです!

 

富来城と足利尊氏

富来城跡

足利尊氏は1336年の豊島河原の戦いで後醍醐天皇側の新田義貞、北畠顕家、楠木正成らに敗北し九州へ落ち延びたとき富来の羽田海岸から入り富来城に入城しました。

富来氏9、10代目は尊氏を保護し大変感謝され所持の旗織、秘蔵の珠を贈られました。これらは近くの萬弘寺に所蔵されています。※当地の案内板を参考にしています。

さて、本当なのか?

結論からいうと尊氏は富来の羽田海岸から入っていないでしょう!

確か尊氏は大友氏、少弐氏に迎えられ筑紫国(福岡県)に入ったはず。四国にも宮方がいたのでわざわざ危険を冒して瀬戸内海から国東半島から入る意味もないですしね。

また富来城に来たというのも怪しい。果たしてそんな時間があったのだろうか?豊島河原の戦いが1336年の3月後半で次に起こる九州での多々良浜の戦いが1336年の4月半ばです。1ヵ月もないのに富来にはこないよね?行く理由も見当たりませんし。

所持の旗織、秘蔵の珠を贈られたについてはあり得るかもしれません。大友氏に属していた富来氏が尊氏と何かしらの接触をして感謝された可能性はあります。

 

富来城と黒田官兵衛

富来城跡

戦国時代に大友氏が改易されると富来氏に代わって豊臣秀吉の家臣・垣見一直が入城します。

1600年の関ヶ原の戦いで表向き東軍(徳川家康側)として加わった黒田官兵衛は中津城から出陣し九州内で西軍を味方した大名らを凄まじい勢いで蹴散らしていきます。富来城は西軍につきました。

官兵衛は大友氏再興のために立ち上がった大友義統を別府(石垣原の戦い)で崩壊させ反転し安芸城、富来城に迫ります。城主の垣見一直は岐阜県の大垣城で戦い留守にしていたため一族の垣見理右衛門なる武将が富来城を守っていました。

しかし、一直は大垣城で裏切りにあい謀殺されてしまいます。主人を失った理右衛門は降伏し富来城を開城。江戸時代に入り一国一城令が出され富来城は廃城となります。

 

富来城と宮本武蔵

富来城跡

黒田官兵衛の話とかぶるので簡単に説明します。

宮本武蔵は関ヶ原の戦いのとき黒田氏に仕えていました。

そのさい富来城攻めに参加したといわれています。以上!

ちなみに上の写真は富来城に残存する石垣です。

 

終わりに

富が来る

とっても縁起の良い名前ですね。

富来城の歴史は不明瞭過ぎて何とも言えない不完全燃焼な感じで終わってしまいました。

おしまい!

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