吉田松陰が祀られる世田谷の松陰神社へ参拝【東京の旅】

松陰神社は世田谷の閑静な住宅街にあります。

交通手段は電車をおすすめします。東京急行電鉄世田谷線の松陰神社前駅で降りればすぐなので簡単です。もし自動車で行くなら渋谷方面から世田谷通りに入り環状七号線の十字路(若林)を越えてしばらくすると松陰神社の信号があるので右折したらあります。

しかし右折した先の松陰神社通り商店街が狭く、人が多いのでなかなか運転がしんどいです。20台停められる駐車場があるので祭事さえ行われていなければほぼ間違いなく駐車できます。

 

松陰神社について

松陰神社御祭神は吉田松陰。

1858年(安政5)から1859年(安政6)の安政の大獄で刑死した吉田松陰を門下生であった高杉晋作や伊藤博文等が世田谷区若林に改葬し、1882年(明治15)に門下生達が改葬先の近くに社を築いたことから松陰神社の歴史が始まりました。

 

松陰神社この建物は山口県萩にある松陰神社内の松下村塾を模したものです。

松下村塾は1842年(天保13)に吉田松陰の叔父、玉木文之進が長州藩萩城下に開いた寺子屋。身分関係なしに学ぶことができた当時では珍しい私塾です。ちなみに吉田松陰も松下村塾の塾生でした。

玉木文之進の後に松陰の母方の叔父である久保五郎左衛門が塾を任されその後任に吉田松陰が塾頭となりました。

 

吉田松陰と烈士墓所

松陰神社松陰神社の境内には吉田松陰を始め幕末期に活躍した人物の墓が数基建てられています。

写真の五基の墓の真ん中が吉田松陰の墓石です。

吉田松陰は1830年(文政13)に長州萩城下の松本村に生まれました。若い頃からかなりの秀才で将来を期待されていました。1840年(天保11)におきたアヘン戦争(イギリスvs清)で清が大敗したことを知り、当時学んでいた兵法では西洋に敵わないと悟った松陰は九州、江戸に遊学します。江戸では当時西洋兵学に精通していた佐久間象山に出会い師事。

1852年(嘉永5)には九州で知り合った宮部鼎蔵(みやべていぞう)達と東北遊学を計画。決めた出発日に通行手形が間に合わず『友との約束を破るわけにはいかない!』と通行手形なしで遊学決行。当時重罪の脱藩です。旅先では様々な人々や事柄に出会い松陰の視野は更に広がりました。江戸に戻ると当然の如く罪に問われ身分の取り上げと世禄没収(給与没収)の処分を受けます。

長州藩に戻り父の保護下に置かれることになりましたが、松陰の才能を惜しんだ長州藩主は遊学の許可を下し、再び江戸に向かわせます。

1853年(嘉永6)に浦賀にペリーが来航すると佐久間象山と共に黒船観察。そこで日本とは異なった新しい文明に心を打たれ海外に行けないかと模索します。そして佐久間象山の勧めもあり海外留学を決意。そしてなんと!長崎に停泊していたロシア軍艦に乗り込み密航の計画を企て失敗。松陰が長崎に着いた時すでにロシア軍艦は出航していました。

それでもあきらめない松陰は1854年(嘉永7)に再び現れた黒船に小舟で近づき密航を企てます。乗船交渉するものの黒船側は拒否。そして追い返されます。陸に戻って逮捕!伝馬町牢屋敷に投獄。ついでに師の佐久間象山も捕縛!両人死罪の可能性は大いにありましたが、とある偉い人が『死罪はやりすぎだ』と反対し助命されます。

佐久間象山、吉田松陰は国許に蟄居となりました。松陰は長州藩の野山獄に入獄されます。そして1855年(安政2)に出獄。1857年(安政4)に叔父の松下村塾を引き継ぎ、そこで高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋など明治期を創った若者を教育しました。

1858年(安政5)、幕府が天皇の許可を得ることなく日米修好通商条約を結びます。これは『治外法権の許可』と『関税自主権がない』という日本側に不利な条約でした。治外法権はアメリカ人が日本で犯罪を犯しても裁けない。関税自主権は輸入品に関税がかけられない。日本での生産品が売れなくなる恐れあり。松陰はこれに激怒し過激な行動に出ようとします。

間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺、そして尊王攘夷派の梅田雲浜救出を企てます。間部詮勝は朝廷に日米修好通商条約の勅許を得ることと尊王攘夷派粛正のため上洛してきた幕府のお偉いさんです。生まれ故郷の長州藩にも危険分子とみなされ松陰再び投獄。

1859年(安政6)に梅田雲浜との関係を問われ安政の大獄に連座(連帯責任)し江戸に投獄。取り調べの結果、伝馬町牢屋敷にて斬首されてしまいました。

 

吉田松陰とならぶ四基の墓

左から順に紹介。

福原信冬(ふくはらのぶふゆ)
1837年(天保8)~1864年(文久4)
長州藩士。一般的には福原乙ノ進(おとのしん)と呼ばれています。過激な攘夷論者で久坂玄瑞と脱藩し江戸で尊王攘夷、討幕運動に参加。脇坂三又、遠藤木工、浜田篤蔵、村上其太郎等の同志と江戸の赤坂刈谷藩邸で討幕密議中に下総国古河藩の捕り手に囲まれ負傷し自刃。
来原良蔵(くるはらりょうぞう)
1829年(文正12)~1862年(文久2)
妻が木戸孝允の妹ハル。長州藩士で江戸に登り吉田松陰、木戸孝允らと交流しました。吉田松陰の脱藩に関与したことでお咎めを受け萩へ戻ります。その後、江戸と萩を行き来し砲術や銃器の扱いを学び1859年(安政6)に長州の名門、明倫館の兵学科総統になり長州軍の近代化、強化に貢献しました。
開国派の長井雅楽(ながいうた)と対立。長州藩内が開国派から攘夷派に移りつつあるときに長井雅楽の暗殺を久坂玄瑞と計画するが失敗し責任を取って自害しようとするが阻止されます。死に場を求めた良蔵は江戸に登り横浜外国公使館を襲撃を企てるがこれも失敗。これを長州藩主に諫められ長州藩江戸藩邸にて自刃。
真ん中は吉田松陰。
小林良典(こばやしよしすけ)
1808年(文化5)~1859年(安政6)
幕末の地下人。鷹司家の家臣。橋本左内等と尊王攘夷について密談したり佐幕派(幕府をサポート派)であった関白の鷹司政通を説き伏せ尊攘派に転向させました。
その後、鷹司政通は幕府の逆鱗に触れて出家。戊午の密勅(ぼごのみっちょく)の件で捕縛され、獄死。
※戊午の密勅は日米修好通商条約を勝手に結んだ幕府に孝明天皇が怒り水戸藩に密勅(秘密の命令)を出したこと。ないがしろにされた幕府が怒り安政の大獄が始まりました。
頼三樹三郎(らい みきさぶろう)
1825年(文正8)~1859年(安政6)
京都生まれの儒学者。江戸で儒学を学んでいるときに徳川家の菩提寺である上野寛永寺で灯籠を破壊し退学。動機は朝廷を軽視する幕府への批判。かなり酔っぱらっていたという話も。尊攘運動と徳川後継者争いで一橋慶喜を推したことから安政の大獄で捕らわれ斬首。

 

松陰神社

綿貫直秀(わたぬきなおひで)
1836年(天保7)~1864年(元治1)
次郎助/治良助(じろすけ)とも呼ばれる。長州藩士の足軽で禁門の変により江戸長州藩邸が没収された際に自刃。

※禁門の変または蛤御門の変。長州藩vs幕府軍(会津、薩摩藩など)の戦いで長州軍の敗北。戦争の経緯は攘夷派の長州藩が会津、薩摩藩による政変で京を追われることになります。藩の冤罪を訴える意味で長州藩は挙兵するが受け入れられず長州討伐命令が下ります。退却派もいたが進発派の勢いが強く戦闘が始まる。長州軍劣勢で退却。長州藩は朝敵と見做されます。

 

松陰神社

中谷正亮(なかたにしょうすけ)
1828年(文正11)~1862年(文久2)
吉田松陰の先輩。松陰が野山獄にいるとき、度々訪れて話をしていたらしい。松下村塾繋がりで高杉晋作や久坂玄瑞と親交があったそうです。松陰死後に松下村塾の監督や指導を引き継ぎ、その後病死。

 

松陰神社

野村靖(のむらやすし)と妻・花子の墓
1842年(天保13)~1909年(明治42)
長州藩の下級武士出身で後に政治家に。松下村塾に入塾し尊王攘夷思想に傾倒。老中・間部詮勝暗殺計画で投獄。高杉晋作が指揮した英国公使館焼き討ちにも参加。
明治維新後に神奈川県令、伊藤博文内閣で内務大臣、松方正義内閣で逓信大臣(ていしん)に就任。遺言により松陰神社へ埋葬されました。
※逓信大臣/省は郵便や通信を管轄する行政機関。

 

終わりに

松陰神社の紹介というより吉田松陰と幕末烈士の紹介になってしまいましたね。

どんな時代でもそうですが、有名人の裏に隠れた偉人を発見して勉強すると楽しいですね!でも幕末から明治時代は超複雑で一度迷い込んでしまうと訳が分からなくなってしまうので危険です。

年数がそれほど経っていないのに色んな説があって本当に混乱します。

まぁそれが面白いんですけどね!

おしまい!

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