鹿野城の歴史と琉球守・亀井茲矩について調べたので紹介する!【鳥取の旅】

鹿野城

鳥取市にある鹿野城跡へ行ってきました。

いちのまる
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私は『DMM GAMEの御城プロジェクトRE』というゲームで鹿野城を知りました。

前置きはこれくらいにして、鹿野城の歴史を見てきましょう。

 

鹿野城へのアクセス

鹿野城

鳥取市内から県道21号線を進みます。

鹿野城付近まで走ると右手に『城山公園』『鹿野中学校』の看板がありますので従います。

狭い道を奥まで進むと駐車場があります。

 

鹿野氏(志加奴氏)について

鹿野城

鹿野城の築城年、及び築城者はわかっていません。

因幡の国人衆・鹿野氏(志加奴氏)の居城と伝えられています。

明徳記という書物に鹿野氏の名前が出ています。

明徳記は1391年に起きた明徳の乱について書かれた軍記です。

一色左京大夫詮範ト山名陸奥守氏淸ト。二条大宮ニテ懸合テ。此ヲ先途ト揉合タリ。兩人共ニ名將ナレバ。自ラ敵ニ相當テ白刃ノ上ニ飜シ。命ヲ塵芥ヨリモ輕クシテ。打ッ打レツ戰ケレバ。敵御方一人モ殘ルベシトハ見エザリケリ。山名ノ中務太輔兵モ治部太輔上總介入替々々揉ケル程ニ。山口五郎。家喜五郎、森下六郎。旗津兵庫。志賀野八郎。小鴨入道父子。幡差渡部六郎太郎ヲ始トシテ。三十八人討レシカバ。心ハヤタケニ思ヘ共。

群書類従 明德記 中巻 257頁より

一色詮範と山名氏清が二条大宮で争った際に志賀野八郎が討ち死にしたとあります。

 

鹿野城

陰徳太平記には鹿野氏と鹿野城の名前が出てきます。

翌クレハ天文十三年二月中旬、尼子修理ノ太夫晴久(始禰民部太輔今年攺修理太夫)與國ノ軍士三萬餘騎ヲ引帥シテ、伯州八橋ノ城ニ著キ、爲ニ暫時逗留シテ、初夏ノ比因幡ノ國ヘ發向セラレケレハ、兼ネテ其威風ニ恐怖シ、大崎ノ城ノ敵堪ヘズシテ明ケ退キケリ、其レヨリ鹿野城ヲ取リ巻キ一時ヵ間ニ乗リ破リ、鹿野入道巳下三百餘人ヵ頸ヲ切ツテ大ニ勇ミ悦ヒ、サテ鳥執ノ山下ヲ放火シテ、當城ヵ私市ヵノ一城ヲ攻落シナハ、國中ノ敵城共ハ皆波亂々々ト退散スヘキトテ、軍評定有リケル所ニ、晴久ノ母公以テノ外ニ病〇付キテ難儀ニ及フ由注進頻也ケレハ、同五月上旬因幡ノ國ヲ立ツテ雲州ヘ歸リ給ヘケリ

陰徳太平記 尼子因幡ノ國發向之事より

天文十三年は1544年です。尼子晴久率いる30000の兵士が鹿野城を包囲したのち乗り込んで鹿野入道と以下300人の首を切ったという内容です。

いちのまる
いちのまる

鳥執は鳥取城のことかな?

鹿野氏がその後どうなったのかは不明です。

尼子氏との戦いで殆ど滅亡状態になってしまったのだと思われます。

 

亀井茲矩と鹿野城

鹿野城

十月廿八日 羽柴筑前守秀吉出陣因幡伯耆之境目ニ山中鹿介 弟 龜井新十郎 爲御身方居城候

信長公記 伯耆国南条表発向の事より

1581年(天正9年10月28日)、羽柴秀吉が出陣。因幡と伯耆の境目に山中鹿之助の弟であり、お味方の亀井茲矩の居城がある。

因幡国と伯耆国の間にある居城は鹿野城のことでしょう。

亀井茲矩は旧尼子家臣で山中鹿之助と共に尼子氏の再興を目指していました。山中鹿之助は無念の最後を迎えますが、亀井茲矩は別行動をしていたため難を逃れました。鳥取城攻めの功績を認められて鹿野城を与えられています。

 

鹿野城

亀井茲矩には興味深いエピソードが残っています。

茲矩は大変豪快な武将で、秀吉が『もはや出雲をやることはできなくなった。他に欲しい所はないか。』と訪ねたのに対し、『琉球を下さい』と言い、その大胆な発想を誉め讃えて『亀井琉球守』と軍扇に書いて与えたという。また、茲矩は狭い日本には飽きたらず、朱印船貿易により大きな利益を得て、領内の開発を行った。

鹿野城 案内板『亀井茲矩と朝鮮半島』より

他にも朝鮮で虎を捕まえて秀吉に献上したなどの話が残っています。

現存していませんが、鹿野城内には朝鮮櫓、オランダ櫓という櫓があったそうです。

また鹿野城を釈尊(仏陀)ゆかりの地『王舎城』、城下を『鹿野苑』、山を『鷲峰山』と呼びました

このように亀井茲矩は海外に興味を示したこの時代には珍しい人物でした。

あと茲矩は白うさぎで有名な白兎神社を再興したことで知られています↓

 

亀井氏、津和野に移封

鹿野城

1612年、亀井茲矩が亡くなると亀井政矩が跡を継ぎました。

1617年に亀井政矩は石見国の津和野藩に移封となります。

亀井氏は明治時代になるまで津和野を統治しました。

 

その後の鹿野城

鹿野城

その後、鳥取藩に入った池田光政の重臣・日置忠俊が鹿野城に入城。この際、鹿野は鳥取藩に吸収されています。

池田光政が岡山に移動すると従兄弟の池田光仲が鳥取藩に入封。

1640年、お家騒動で改易になった池田輝澄が鳥取藩にお預けの身となり1640年から1662年まで鹿野に居住したそうです。

日置氏が光政と共に備前に移るや、城は頽壊し、坊街も年々にさびれた。

更に、寛永十四年、天草の乱の後、諸国の古城を毀壊すべき令が発せられた際、この城も悉く石壁を毀ち、今見る荒蕪の丘墟となった。

その後、故有って松平石見守輝澄(石入公)がこの地に左遷され、山麓に二十余年を過したといわれる。

鹿野城 案内板『鹿野故事談による』より

寛永14年は1637年。

島原・天草の乱で反乱軍は一国一城令で廃城となった原城跡を拠点に戦いました。

江戸幕府は今後このようなことが起きないよう、反乱分子がアジトにしそうな城跡などを徹底的に壊したのでしょう。鹿野城もその一環で破壊されました。

鹿野筆縋という史書に1644年、鹿野城が廃城になったと記されているそうです。

 

終わりに

鹿野城

居城が鹿野城の歴史についてでした。

写真は天守台跡から眺める鹿野城下です。

いちのまる
いちのまる

今度、鹿野に訪問したら城下町や鹿野温泉にも行きたいな!

と思う次第でございます。

おしまい!

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