佐賀県

佐賀市

肥前の熊こと龍造寺隆信の生誕地と高伝寺境内の墓に行く!【佐賀の旅】

佐賀市にある龍造寺隆信の生誕地と墓に行ってきました。龍造寺隆信は1529年に肥前国の水ヶ江城で生まれた武将です。龍造寺氏は国人衆として少弐氏に仕えていましたが、隆信の下剋上によって戦国大名まで上り詰めています。肥前国を統一後、更なる勢力拡大を目指し豊後国の大友氏や薩摩国の島津氏と対立するようになりました。
佐賀市

佐賀藩の祖・鍋島直茂の軌跡。胞衣塚と高伝寺の墓所を訪れて【佐賀の旅】

佐賀市にある鍋島直茂の生誕地と墓に行ってきました。鍋島直茂は1538年に肥前国佐嘉郡の本庄館で生まれました。戦国大名の龍造寺氏に従い武功を重ね、主君の龍造寺隆信が戦死したあとは家老として龍造寺氏を主導しています。その後、豊臣秀吉や徳川家康の下で大いに活躍し佐賀藩の藩祖になりました。1618年に病死。享年81。
佐賀市

日本赤十字社の礎を築いた佐野常民の記念館を見学してきた!【佐賀の旅】

佐野常民は1823年に佐賀郡早津江村で生まれました。9歳のときに藩医・佐野家に養子として入りました。常民は藩校の弘道館に入り優秀な成績を収めたそうです。それから江戸、京都、大阪と遊学。帰省すると佐賀藩精煉方の主任に任命されます。1855年からは幕府の長崎海軍伝習所の一期生として蘭方医学や航海術を学んでいます。
佐賀市

若かりし頃の大隈重信や江藤新平が通った佐賀藩の藩校・弘道館跡に行ってきた【佐賀の旅】

佐賀の七賢人の内、鍋島直正を除く6名(佐野常民、島義勇、副島種臣、大木喬任、江藤新平、大隈重信)は若かりし頃、弘道館で勉学に励みました。幕末から明治にかけての激動の時代を生き、結果はどうあれ、強い志を胸に混沌の中をひたすらに突き進みました。弘道館の遺構は残っていませんが、跡地に石碑と徴古館という博物館が建っています。
佐賀市

佐賀藩主鍋島氏の万部塔と龍造寺家兼ゆかりの六地蔵を見に行った【佐賀の旅】

佐賀市に万部塔と六地蔵という史跡があり、万部島と呼ばれています。万部とは万部経のことで『追善や祈願などのために、万部の経典を読むこと』の意味があります。万部島は川(堀)に囲まれた島だったようです。万部読経が行われた島ということですね。佐賀の役招魂碑があります。これは明治七年の佐賀の役で戦死した212名を祀る碑です。
佐賀市

佐賀城の風景を眺めて。幕末の名君・鍋島直正公についてざっくり紹介します【佐賀の旅】

室町時代後期。肥前国佐賀郡は少弐氏から下剋上を果たした龍造寺氏によって支配されていました。当主の龍造寺隆信が沖田畷の戦い(1584年)で戦死すると、重臣の鍋島直茂が中心となって龍造寺家を支えます。江戸時代に入ると龍造寺氏が居城にしていた村中城を鍋島直茂・勝茂父子が改修、拡大します。これが佐賀城の始まりです。
佐賀市

江藤新平と生誕地と墓へ参拝。彼の人生と佐賀の乱について紹介しようと思う【佐賀の旅】

江藤新平は幕末から明治初期に活躍した佐賀県出身の政治家です。佐賀藩の七名の偉人『佐賀の七賢人』、明治政府に貢献した『維新の十傑』の一人に選ばれています。征韓論を巡る政争の結果起きたとされる明治六年政変で下野したのち、佐賀県に帰省し佐賀の乱のリーダーの一人として新政府軍と戦います。