せっかく旅行記ブログを書いているのだから地元も記事にしなければと思い立ち、一日かけて桐生市新里町を散策しました。私が過ごしていた頃は群馬県勢多郡新里村だったのですが平成の大合併により町に昇格してしまいました。
合併当時は確か大学生で上京していたため、里帰りの際いきなり名前が変わっていてビックリした記憶が残っています。個人的には『新里は町じゃなくて村のままのほうがよかったな』と少し残念に感じています。村の方が響きがよいと思うのです。
さて、本題です。
悲しいかな、新里町には特筆すべき名所はありません。ということで今回の記事は殆どの方が興味を持たれないであろうマニアックな史跡等を取り上げてまいります。
それでは行きましょう!
群馬県指定史跡 山上城址公園
桐生市新里町山上297番地1にある入場料無料の城址公園です。
今はどうだか知りませんが数十年前は休日になるとそこそこ賑わっていました。
子供の頃、これらの遊具でよく遊んでいました。懐かしいです!
この井戸も当時と全く変わっていません。
鉄格子が張ってあるので中に入っても落ちないようになっています。
こんなのあったんだ?って感じです。
山上城址公園は芝生ゾーンと雑木林ゾーンに分かれています。
雑木林の方に城が建っていたようです。
遊具が少しだけ設置されていますが、ここで遊んでいる子供は殆どいなかったと思います。
山上家と常広寺
山上城址公園の脇にある常広寺には山上家に関する石碑が建てられています。
山上家のルーツです。大化の改新で有名な飛鳥時代の藤原鎌足(中臣鎌足)から数代後の藤原秀郷(平将門討伐で功績をあげた)、そしてさらに九代後の藤原高綱が山上城主だそうです。
山上城についての詳細はよくわかっていないようで、1590年位に廃城したのではと考えられています。桐生市のホームページには戦国時代末期に甲州の武田勝頼に攻められ落城、廃城したと書かれています。
国重要文化財 山上の多重塔
場所は桐生市新里町山上2555。
田畑の中にポツンと佇む多重塔です。801年(平安初期)に道輪というお坊さんが平和を願って建てた供養塔。
的になことが塔に刻まれています。(超訳)
もともとは朱色に塗られていたみたいで血塗られた多重の塔と呼ばれ、あそこは心霊スポットだなんて噂されていました。
国指定史跡 武井廃寺塔
桐生市新里町武井598にある武井廃寺塔跡。
この史跡は寺院の柱を支える礎石跡と考えられてきたのですが、傾斜地であることと他に礎石が見つからないという研究の結果から奈良時代の火葬墓跡説が濃厚になっています。子供の頃木の棒で中をかき回して遊んだ記憶があります。
もしかしてこの中で人体を燃やしていたのかな…。
天神古墳
桐生市新里町小林60-1。
我母校、新里中央小学校の敷地内にある古墳。ここは500年代に作られたといわれる古墳で、刀や埴輪(はにわ)など遺物が発掘されたそうです。すぐ近くにある忠霊塔の内部と天神古墳は繋がっているというありえない噂が流れていました。
群馬県指定重要文化財 関の磨崖仏
桐生市新里町関67-1にある磨崖仏。
鎌倉時代に掘られたもの。
に阿弥陀如来、脇侍(わきじ)右が観音菩薩、左が勢至菩薩。磨崖仏とは岩塊に直接彫られた仏像のことです。
群馬県指定史跡 中塚古墳
桐生市新里町新川2592にある古墳。
600年くらいに作られた新川臣(にいかわおみ)の墓といわれています。
ちなみに住所の新川は『にっかわ』と読みます。
むかしは整備されていて中に入ることもできました。
天台宗 善昌寺
桐生市新里町新川2728の善昌寺は由緒あるお寺です。
806年(大同1)に伝教大師最澄が上野国に向かう際、弟子の宥海よって創建されたと伝わります。当時は大同寺と呼ばれていたそうです。同世代に活躍した空海もそうですがいろいろなところを遍歴なさっているんですね。
善昌寺境内の新田義貞首塚
群馬生まれの新田義貞は鎌倉幕府を倒したことで全国的に有名です。後に同じ討幕派で遠い親戚の足利尊氏と対立し越前藤島(福井県)で戦死しました。そして京の六条河原でその首をさらされます。
あまりに不憫に思った重臣の船田義昌(ふなだよしまさ)が首級を生誕地である群馬に戻したいと死線を潜りどうにか持ち帰ったそうです。
船田義昌は新田義貞を手厚く葬り本人は供養のためこの寺で生涯を終えたといわれます。そういう経緯があって大同寺から義昌の「昌」をとって善昌寺と呼ばれるようになりました。
この話がどこまで真実なのかは不明です。
終わりに
幼稚園年長~高校まで過ごした懐かしい新里町の散策はこれにて終了!「きっと何にもないだろうな」と全く期待していなかったのですが、意外と探せば見つかるものですね。地元から離れてる人はたまには故郷に戻ってみると違った一面が見えるかもしれませんよ。
おしまい!