功山寺は1327年に創建された寺院です。
現在の宗派は曹洞宗ですが創建当時は臨済宗で金山長福寺と称されました。
鎌倉、南北朝時代は後醍醐天皇や足利尊氏など、室町時代は周防大内氏から庇護を受けてきました。
毛利元就から攻め込まれた大内義長は1557年に功山寺で自刃しています。
その後、寺は一時荒廃します。
1602年に初代長府藩主の毛利秀元が寺を再興、曹洞宗に転宗させます。二代目藩主が秀元公の戒名『智門寺殿功山玄誉大居士』にちなんで功山寺と改名します。
1865年、高杉晋作が功山寺で挙兵。
このことを功山寺挙兵や回天義挙といいます。
さて、今回は回天義挙について述べます。
時代背景がややこしいのでなるべく完結に紹介します。時系列を辿っていくと無駄に長くなってしまうので。
功山寺へのアクセス
ふくの関長府観光会館店に無料駐車場があります。
そこから徒歩で10分程で到着します。
功山寺にも駐車場はあるようですが、道幅が狭い上に空いていないことも多いみたいなのであまりおすすめ出来ません。
公共機関利用ならJR長府駅、下関駅からバスに乗り『城下町長府』下車、徒歩10分程で到着します。
回天義挙と元治の内乱について
長州藩内の正義派と俗論派の間に起こった戦いを元治の内乱と呼びます。
俗論派=保守派・・・佐幕派など。幕府に恭順しよう!
幕末の長州はこんな感じ↓
『八月十八日の政変→禁門の変→第一次長州征討→元治の内乱→第二次長州征討』
八月十八日の政変で京都から追い出され、禁門の変で朝敵に。第一次長州征討は朝敵認定された長州藩と江戸幕府の戦い。結果は長州藩の降伏。
降伏条件は、
・藩主父子からの謝罪文書。
・山口城の破却
第一次長州征討により正義派の重臣が処罰され藩論は俗論派に傾きます。俗論派による正義派の粛清が始まりました。
正義派に属する高杉晋作は命の危険を感じ福岡に隠れますが、国の行く末を案じ功山寺で挙兵します。挙兵には後の内閣総理大臣、伊藤博文も参加しました。
この挙兵が回天義挙です。
結果から述べると高杉晋作ら正義派が俗論派を追い詰め藩論を対幕方針に確定させます。
下関新地会所、三田尻の海軍局共の襲撃は殆ど無抵抗だったためお互い被害はありませんでした。
というかみんな好意的で志願兵がどんどん増えていったそうです。
元治の内乱の流れはこんな感じです。
実際はもっと複雑なので興味のある方は調べてみてください。
その後の第二次長州征討で長州藩が幕府を打ち負かしため幕府の権力は著しく失墜します。高杉晋作が起こした回天義挙は明治維新に繋がる重要な出来事でした。
彼が挙兵して勝たなければ、長州藩は幕府に恭順したので戦争を回避したはず。
そうすると幕府はしばらく続くことになるので、歴史が今とは違うものになったでしょう。まぁ、たられば論なんて下らないですけど。
高杉晋作は決起から2年後の1867年に肺結核で亡くなっています。
享年29。
終わりに
以上が回天義挙についてでした。
写真の功山寺仏殿は国宝に指定されています。
内部の柱に書かれた文字から1320年に建立されたことがわかっています。
功山寺創建が1327年なのでそれ以前に建てられたようです。
おしまい!