大胡氏と大胡城の歴史を真剣にしらべてみた【群馬の旅】

大胡城の歴史を振り返る前にこの一帯を支配していた大胡氏について触れておきましょう。

学校の授業で習うような歴史にはまず出てこない大胡氏ですが、様々な古文書にその名が現れていることに私は驚きました。

それではどうぞお付き合いくださいませ。

 

大胡城へのアクセス

大胡城跡

自動車にしても電車にしてもまずは大胡駅を目指しましょう。

駅から群馬県道40号を北へ向かいます。群馬県道16号に入ると青看板で大間々、粕川と出るのでそちら方面へ。

少し進むと大川橋西詰という信号があるのでこれを左折。道なりに進むと右側の川に歩行者用の橋が見つかりますのでそこを左折します。

そのまま進めば大胡城跡です!

 

大胡氏の歴史『平治物語』

大胡城跡

大胡氏はムカデ殺しの藤原秀郷の流れを持つ足利氏の子孫だといわれています。

大胡氏の名前が初めて現れるのは平治物語↓

上野国には、大胡・大室・大類太郎…

平治物語 源氏勢汰への事より抜粋

平治の乱は1160年(平治1)に起きた戦いでざっくりいうと平清盛vs藤原信頼、源義朝の図。

結果は平清盛の勝利。

で大胡氏は信頼、義朝側に味方しました。

敗北した大胡氏の一族がどうなったのかまではわかりません。

源義朝は鎌倉幕府を開いた源頼朝の実父です。

 

大胡氏の歴史『平家物語』

大胡城跡

平家物語では、

続く人ども、大胡、大室、深須、山上、那波太郎、佐貫広綱四郎大夫、小野寺禅師太郎、辺屋子の四郎。郎等には、宇夫方次郎、切生の六郎、田中の宗太を始めとして、三百余騎ぞ続きける。

平家物語 橋合戦より抜粋

1180年(治承4)、以仁王を追いかける平氏が宇治川を渡れず躊躇しているときの様子ですね。

ここで平氏側の足利忠綱が『利根川を境に戦っている坂東武士の俺らにこんな川が渡れねぇわけねぇ!』といって宇治川を突っ込んでいった後にこの文が続きます。このとき大胡氏は平氏側だったようです。

これは私にとって非常に興味深い文章です。

まず文中の『山上』は恐らく私が育った村の御殿様、母親の苗字が『宇夫方(字は異なる)』なのでもしかしたら何かしら関係があるのかもしれない。切生の六郎は桐生六郎の事と思われ、私の生まれた桐生市に関係する人物なのです。

平家物語の十巻で西国へ平氏追討する際に大胡三郎実秀の名前が見えます。このときは源氏の味方になっていますね。

 

大胡氏の歴史『吾妻鏡』

大胡城跡

吾妻鏡(東鑑)は鎌倉幕府の実務内容などを編年体で細かく書した古文書です。

この書物の中にも大胡氏の名が見られます。

十七日 癸巳 天顔快晴巳尅御出野路宿先随兵以下供奉人自庭上至路次二行座列寄御輿之後騎馬隆親卿以下於關寺邊見物云々子尅御入洛著于六波羅御所給

吾妻鏡32巻より抜粋

(1238年2月)17日、癸巳。空は晴れ渡っている。午前10時に野路宿を出た。先にお供の兵が庭より道に出て二列に並んで座り御輿を寄せ馬に乗る。隆親卿らが関寺見物していた。真夜中12時頃六波羅御所に入られました。

この後にお供の名前がずらーっと書いてあり『将軍の護衛兵192騎』の項の七番目に大胡左衛門次郎と大胡弥次郎の名前があります。

また↓

廿九日 己丑陰 未尅雷鳴今日萩原九郎資盛同父遠直等召放所領被召置其身是悪黨扶持之由大胡五郎光秀訴申之間被糺明之處其過依難遁也

吾妻鏡37巻より抜粋

(1246年2月)29日、己丑。くもり。14時頃雷が鳴る。本日、萩原九郎資盛と同父の遠直らの領地が取り上げられ身柄が拘束された。この者らは反逆者を助けたと大胡五郎光秀に訴えられた。調べてみるとその罪から逃れることは難しい。

内容はこんな感じです。

大胡さんが萩原さんの悪事をお上にチクったというお話です。

まだまだあります↓

一日 辛亥天晴 辰尅将軍家二所御進發初度著浄衣人々行列和泉前司行方爲奉行随兵行列平三郎左衛門尉盛時奉行之 行列

先陣随兵十二騎懸總鞦

壹岐六郎左衛門尉跡 葛西四郎太郎

三田小太郎跡子息 三田五郎

大胡太郎跡 大胡掃部助太郎

小林二郎跡子息 小林小三郎

吾妻鏡48巻より抜粋

(1258年3月)1日、辛亥快晴。午前8時に将軍家が二所へご出発される。浄衣を着る人々の行列。これは和泉前司行方が奉行。随兵の行列は平三郎左衛門尉盛時がこれを奉行する。最初のお供の兵は12騎。

適当に訳したので所々間違っているかもしれませんがこんな感じだと思います。

これだけ名前が出ているので当時の大胡氏は上野国で相当な権力者だったのでしょう。

 

大胡氏と浄土宗

大胡城跡

文献は見つからなかったのですが大胡小四郎隆義が京都で法然上人と出会い息子の太郎実秀とともに浄土宗へ帰依したという話も残っています。

二人は法然上人へ質問の手紙を送り、その返書が現在も残っているそうです。

この書を『大胡消息』といいます。

多くの戦場に駆り出された大胡氏は多くの仲間が非業の死を遂げていったのでしょう。二人はそんな無常な世を見て絶望し『我々はどうしたら救われるのか?』と思い悩み浄土宗に帰依したのかもしれませんね。

 

大胡氏のその後と大胡城

大胡城

南北朝時代から室町時代にかけての大胡氏は不詳なことが多いです。

元弘の乱で鎌倉幕府の味方をして没落したともいわれていますし、その後の足利尊氏(兄)vs足利義直(弟)の戦いで尊氏側について上野国で戦ったともいわれています。

1541年(天文10)に新田金山の横瀬氏が勢力を大きくすると大胡氏は北条氏康の誘いに乗り大胡城から去り武蔵国牛込へ移動し牛込氏を名乗りました。

そして戦国時代の大胡城は上杉謙信と同盟関係(従属?)にあった長野氏の傘下に入りました。

上杉氏が後北条氏を攻めるため上野、下野の諸将の参陣を要求。その際に謙信が書いたとされる『関東幕注文』の中に大胡氏の名前があるので一部は上野国に残ったのでしょう。

ただその時点で大胡城は近所の上泉城主・上泉信綱が管理していたらしいのでその配下にいたか大胡城からは出されてしまった可能性はあります。(一応、上泉信綱は大胡氏の一族)

そして上泉信綱の時代に後北条氏に攻められ大胡城は落城してしまいました。

その後は上杉、後北条で大胡城の奪い合っています。上杉謙信が亡くなり有名なお家騒動『御館の乱』が勃発すると敗北した上杉景虎側に参軍した上杉家臣で厩橋城主の北条高広は甲斐の武田勝頼を頼り態勢を整えます。その際、大胡城には大胡高繁なるものが入城したそうです。

大胡高繁は北条高広の親戚のようで上まで紹介してきた大胡氏とは別物とされています。※北条高広は『ほうじょう』じゃなくて『きたじょう』と読みます。

 

大胡城跡

ご存知の通りこのあとすぐに武田氏は織田信長に滅亡させられ、織田信長も本能寺の変で死去します。どさくさまぎれに北条高広は厩橋城に入り真田昌幸らと協力し合い独立を保っていましたが後北条氏に攻められ落城してしまいます。

その後北条氏も1590年(天正18)の小田原征伐によって滅亡すると徳川家康が関東へ転封されてきます。その家臣、牧野康成が大胡城に入城し25年後の1616年(元和2)に牧野氏が移封し代わりに酒井氏がやってきて、大胡城はその役目を終えます。

以上が大胡氏と大胡城の歴史です。

 

終わりに

当初は気合い入れて書くつもりはなかったのですが、楽しくなっていろいろと調べていたら結構な文字量になってしまいました。

いちのまる
いちのまる

疲れました~。

おしまい!

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