幕末期に海外からの圧力を受け日本国内は混沌に満ちていました。様々な思想が入り乱れ、奪い奪われ、殺し殺され、犠牲を払い、纏まりつつある日本。
そんな日本を虎視眈々と眺める世界。
時は明治。判断を見誤れば即植民地の緊迫状態。このような時期に生を受け、混乱の中に育ち、後に世界を相手に戦う漢の話です。
江の島・児玉神社
江の島にある児玉神社。 御祭神は児玉源太郎命。
御神験は勝利、英知、福運。
日露戦争に関わった人物を祀る神社の御神験は大体こんな感じですね。
児玉源太郎について
現在の山口県周南市出身。
1852年(嘉永5年)、長州藩の支藩である徳山藩の武士の長男として生まれました。
父の児玉半九郎は過激な尊王攘夷論者で危険視され蟄居謹慎。蟄居謹慎に憤慨し食事拒否。そのまま死亡しました。児玉源太郎5歳の時です。この件により児玉家は衰退していきます。その後、児玉源太郎の姉に嫁いだ児玉次郎彦に教育されます。
児玉次郎彦も源太郎父と同じく尊王攘夷派で保守派(佐幕派)によって暗殺されてしまいます。1864年(元治元年)に次郎彦が暗殺され、児玉家は断絶。しかし翌1865年(慶応元年)に藩論が覆り児玉家は再興されました。
児玉源太郎自身の話に戻ります。
・1887年(明治20年)に陸軍大学校校長就任。
・1891年(明治24年)にヨーロッパの軍事教育を視察、翌年に陸軍次官就任。
・1898年(明治31年)に台湾総督。
・1900年(明治33年)に台湾総督兼陸軍大臣。
・1903年(明治36年)に第一次桂内閣で内務大臣に就任するが、対露戦計画に参画していた重要な人物が亡くなり、穴を埋めるため参謀本部次長に。大山巌から特に強い要求がありました。
内務大臣から参謀次長は地位が2階級も落ちる降格でしたが、日本の大事、また大山さんに頼まれたのなら仕方ないということでこれを受けました。児玉が来るということで軍の士気もかなりあがったそうです。
日露戦争では軍資金を集めるため財界の渋沢栄一を動かしたり、それまでの日本軍は陸軍中心で海軍は従っている状況でした。児玉源太郎はそんな身内揉めをしているようでは日露戦争の結果に影響を与えると考え、海軍大臣の山本権兵衛に訪問し陸海対等の話を持ち掛けたりしました。
本当に日本の行く末だけを見つめていました。自分のことは二の次なんです。
日露戦争後は陸軍参謀総長に就任。
・1906年(明治39年)に南満州鉄道創立委員長に就任しますが、就任10日後に脳溢血で亡くなりました。
享年55歳。
児玉神社拝殿
簡単にまとめるなら、超優秀で日露戦争でかなり活躍した人物ということです。
日露戦争は海軍の活躍が目立っていますが、陸海軍双方の協力があっての勝利ということを忘れてはいけません。歴史の教科書では東郷平八郎くらいしか記載されていないですからね。いろいろな都合があってあんまり詳しく載せられないんですかね?
日露戦争とか、かなり胸熱なんですけどね。
児玉神社本殿
「何故、江の島に児玉神社?」という疑問が浮かびましたので調べました。
児玉源太郎は鎌倉に別荘を持っていました。毎週日曜日に日本の進退と戦争についてゆっくり考えるため、静養を兼ね別荘へ行っていました。ところが陸軍や政府のお偉いさんはそんな事情お構いなしに訪問する次第。
「うざいわ~。たまには一人にさせてくれ」と思った児玉源太郎は「あっ、あそこに籠ろう」と江の島の山中に身を潜めました。
しかし解明班により居場所が見つかり面会者が江の島まで来るようになったそうです。 島民は正装した偉そうな人々が来ることに疑問を抱きました。
やがて児玉源太郎大将とわかり大将を徳とし、没後に児玉源太郎静養の地として其霊を祀り大正7年、内務大臣から児玉神社が公式に認定されたといわれています。
二〇三高地の石塊
二〇三高地の石塊。
乃木希典大将率いる日本軍とロシア軍が壮絶な死闘を繰り広げた203mの丘陵。乃木大将は自身の漢文の中で爾霊山(にれいさん)と詠みました。海軍が艦砲射撃をする際の観測所として占領しましたが、実際には必要ない戦いだったと言われています。
大山巌、児玉源太郎が率いる満州軍司令部と第3軍の乃木希典は二〇三高地攻略を反対していましたが、大本営と海軍からの強い要請に止む終えず攻撃を開始した経緯があります。まぁ、この辺は後世の創作が多いのでよくわかりません。「坂の上の雲」を読んだり観たりすると乃木将軍かわいそうなくらい酷い扱いだし。
児玉源太郎と乃木希典は同じ出身で仲が良かったそうです。 他にも山縣有朋、後藤新平の詩碑などがありましたが、撮影し忘れました・・・。
終わりに
久しぶりにおみくじ引きました。大吉だって!かねがね良いことが書いてあります。
来年はいいことあるかな?
おしまい!