群馬の偉人!剣聖・上泉信綱の居城だった上泉城へ【群馬の旅】

私が上泉信綱を初めて知ったのは中学校の時に嵌った歴史シミュレーションゲーム『信長の野望』だったと思います。『信長の野望』は他家を滅ぼしたり従属させることで天下統一を目指す歴史の勉強にもなる面白いゲームです。

プレイヤーの多くは出身地の大名で一度はプレイするのではないでしょうか?私は群馬県が出身なので群馬の大名で始めて天下統一したろうと考えるわけです。

最新のシリーズはわかりませんが、プレイしていた当時の上野国(群馬)大名は箕輪城主・長野業正という『おじいちゃん大名』でした。その配下に上泉信綱がいたのです。彼は剣豪という合戦を有利に運べる特性を持っていたため非常に目立っていました。(主君の長野業正もかなり強いです)

『大名も配下もこれだけ強ければ天下統一も簡単なのでは?』と思わせる程でしたけれども、井の中の蛙とはまさにこのこと…。

上野国は激戦区!

西の武田信玄、南の北条氏康、北の上杉謙信と戦国時代中期のオールスター揃いと来たもんだ。

栃木方面に活路を見出そうと軍を進めるも…。隙を付いた武田と北条がたちまちに来週。地獄のようなターンが毎度繰り広げられた記憶が残っています。

結局うまく行ったのは上杉謙信と強固な同盟を組みいきなり武田信玄を攻め滅ぼす方法でした。北条氏康の攻略も試してみましたが小田原城が堅すぎるせいか遂に攻略は出来なかった…。

いちのまる
いちのまる

話が完全に脱線しましたね!

今回の記事は剣聖・上泉信綱とその居城、上泉城についてです。

それでは参りましょう!

 

上泉城跡へのアクセス

群馬県道76号線の上泉町交差点近くにあります。

交差点を東に進むと藤沢川に架かる小さな橋があります。橋を越えてすぐ左折してしばらく進むと右手に城跡があります。

少し説明しにくい場所にあるのでgoogle mapで事前に調べるか、カーナビに頼った方が良いかもしれません。

 

上泉信綱について

上泉城

上泉信綱は1508年(永正5)に群馬県前橋市の上泉城に生まれ、1577年(天正5)に奈良県の柳生谷で亡くなったとされています。生没年は諸説あります。

藤原秀郷の流れを汲む大胡氏の一族、若しくは足利将軍の命で大胡氏再興のために関東へやってきた河内源氏の一色氏の流れという説もあります。信綱は祖父や父の影響で兵法書や剣術を学び成長していきます。

所謂天才型タイプだったようで祖父や父を超えるまでにそれ程時間はかからなかったとの事。

陰流、念流、神道流といった剣術の流派を学び、安全な稽古をするため木刀の代わりに袋竹刀を発明。故に剣道の神様とも呼ばれています。

 

上泉城

恐らく上泉信綱の前~中半生は大胡城や上泉城などの赤城南麓を拠点に活動していたと思われます。しかし後北条氏の攻撃によりそれらの城が奪われてしまいました。その後は箕輪城の長野業正に仕えたと伝わります。

長野業正が生きている間は武田信玄や北条氏康の大軍に攻められても箕輪城を守り切っていたのですが、息子代になり『業正が死んだ今こそだ!』と俄然やる気になった武田信玄に落城させられ長野氏は滅亡。

主家が滅んでしまった上泉信綱は武田信玄に登用を持ちかけられますが、もう他大名には仕えない事を条件に仕官を拒否しました。

そして日本各国に自流派を広めるため疋田景兼などの弟子達と旅に出かけます。この自流派がかの有名な新陰流です。

 

上泉城

上洛を目指し様々な地を遊行。

次第に良い噂が広がっていき上洛すると信綱の才能や人徳に魅かれた多くの人々が集い弟子となります。弟子の中には柳生宗厳(石舟斎)、丸目長恵、奥山公重、宝蔵院胤栄など後の日本武道の礎となる有名な人物がいます。

信綱は公家の山科言継(やましなときつぐ)とたいへん仲が良く言継卿記という日記に信綱の名が32回も登場しているようです。

信綱の人望&能力と山科言継の政治力あってか京都御所への昇殿を許され正親町天皇の前で新陰流を披露したり、将軍足利義昭に招かれ二条城で酒杯を頂いたとされています。

いちのまる
いちのまる

これってとんでもないことですよね?!

 

終わりに

上泉城

向かって右側が上泉信綱のお墓。(西林寺)

立地が悪かったせいか群馬県って戦国時代に活躍した有名な武将あまりいません。上泉信綱は一般的にはマニアックな武将かもしれませんが、群馬県では貴重な著名武将なのです。

おしまい!

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