甘崎城は愛媛県今治市にある大三島(おおみしま)の東に浮く古城島に築かれた海城です。
いつ頃からか定かではありませんが、瀬戸内海を縄張りにしていた村上水軍の一族は、大三島と伯方島の間に位置する鼻栗瀬戸を押さえるための拠点としてこの島を選びました。
甘崎城には石垣や岩礁ピットなどの遺構が残っています。しかし容易に見学させてくれません。
なぜなら…。
年に数回しか起きない海割れの日(干潮)を待たなければならないからです。
残念ながら私は遠くから甘崎城を眺めることしか叶いませんでした…。
それでは、甘崎城がどのような城だったのか簡単に歴史を振り返ってみましょう。
甘崎城へのアクセス
しまなみ海道・大三島ICを下りて突き当り右折。500mくらい進むと左手に古城島(甘崎城)が見えます。
堤防沿いの細い道に入れるので邪魔にならないところに車を停めて、思う存分眺めましょう。
運良く海割れ時(干潮)に訪問出来たなら、この階段を下りて城まで歩いてゆくのです。
甘崎城の歴史
古城島甘崎城跡(愛媛県指定史跡)
古城島甘崎城は古名を天崎城と記され、守護神を祭る甘崎荒神社(現地)の伝えによると天智天皇十年(六七一年)八月七日唐軍の侵攻に備えて、勅命によりて築城すと云。
その初名を上門島海防城といいし由、以て日本最古の水軍城とすべく、以来瀬戸内水軍史上にその名を記し、重ねることははなはだ多く、元禄四年(一六九一年)この沖を航したドイツ人ケンペルも帰国後『日本誌』にその雄姿を記して『海中よりそびゆる堡壘あり』と述べた。
今日の姿になつたのは幕末のころらしく、海底にはなお築城礎石の巨石の列二十余条延べ約一〇〇〇メートルを存し、その技法の一部は古代に属するものと見られている。
写真は甘崎城の説明板です。引用文は昔の説明板に書かれていたものです。
ネットで『甘崎城 看板』と画像検索すれば昔の写真がHITしますので、興味のある方は検索してみて下さい。
前半部分は推測の域を出ない説だと思われます。
天智天皇は白村江の戦いで中国(唐)・新羅連合軍に敗北したため、唐の襲来を恐れ多くの城を築いたとされています。それらは主に古代山城として知られ、有名どころだと筑紫(九州北部)の大野城、大和(奈良県)の高安城・讃岐(香川県)に屋嶋城・対馬の金田城などがあります。
この一環で上門島海防城が築かれた可能性もあるのかもしれませんが、証拠は発見されていないはず。
後半部にあるドイツ人ケンペルの日本誌は訳文が見つかったので引用します。
鼻繰より一里にタラミノと云ふ村あり。此兩村の間に一個の水中より聳ゆる堡壘・又水砦あり。此間の水道はその幅・短銃の射程よりも廣からぬゆえ、緊要の場合にはそれを斷ち切るために置きたるなり。
吳秀三譯註 ケンプェル江戸參府紀行 第八章 小倉より大坂への旅行(千六百九十一年二月十七日發途)より
とあります。
ケンプェル江戸參府紀行を少し読み進めると小さな文字で甘崎城の歴史が書かれていました。
1928年(昭和3年)に発行された古い書籍なので真偽の程は不明ですが、せっかくなのでこれも引用しておきます。
〇大三島の甘崎に舊くより古城と稱する所あり〇大三島の中・瀨戶崎村大字甘崎の海上にある要害なり。
一名を荒神城・古城・島城などゝも云ひ、參謀本部地圖にも古城として掲ぐ。
天智天皇の十年に、こゝに初めて海防城を立てて天崎城と稱してより、此近海の要害となり。天慶の亂・源平の戰にも敵味方之を攻守の要害とせり。
南北朝の頃村上河内守・今岡式部少輔によりて南朝の爲に忠義を盡したりといひ。
豐臣時代までは今岡氏こゝにありしが、天正十三年今岡民部太輔・河野の一族とともに沒落し。
其後相尋きて小早川隆景・加藤嘉明等の所領となり、慶長中には藤堂大炊頭・菅宇兵衞・檜垣五郎等之に居りしが。
慶長十三年藤堂家伊勢に移封の後、此地は松山藩の所領となり、此城も廢されたり。
昔時は島の周圍高く石垣を繞らし築き上げたれど、今は之を取毀ち、城の面影を存せさるも、礎石はなほ存して城の位置形狀は之を想像すべし(望月圭介君・西園寺源透君・國分泰造君報)
吳秀三譯註 ケンプェル江戸參府紀行 第八章 小倉より大坂への旅行(千六百九十一年二月十七日發途)より
荒神城・古城・島城などともいい、参謀本部の地図にも古城として掲載されている。
天智天皇10年の時、ここに初めて海防城を立てて天崎城と称してから、この近海の要害となる。天慶の乱・源平合戦の際も敵味方がこれを攻め、或いは守りの要害とした。
南北朝時代の頃、村上河内守・今岡式部少輔が南朝(後醍醐天皇)の為に忠義を尽くしたという。
豊臣秀吉の時代までは今岡氏がここにいたが、天正13年、今岡民部太輔・河野の一族とともに没落する。
その後、小早川隆景・加藤嘉明らの所領となり、慶長年間には藤堂大炊頭・菅宇兵衞・檜垣五郎らがここに居たが。
慶長13年、藤堂家が伊勢国に移封ののち。この地は松山藩の所領となり、城は廃された。
昔は島の周囲に高く石垣を巡らせ築き上げられたけれど、今はこれを取り壊し、城の面影は、礎石が今もあって城の位置や形状はこれから想像するべし。(望月圭介君・西園寺源透君・國分泰造君の報告より)
上にも似たようなことを書きましたが、私にはこれが正しい情報か判断出来ません。
『恐らく一部は正しくて、一部は誤りである。』ぐらいに考えております。
正否を突き詰めたいという方は御自身でお調べになって下さい。私には無理です!
終わりに
村上海賊魅力発信推進協議会が発行している【村上海賊の城】という冊子に甘崎城が紹介されていました。
これによると天文10年(1541年)、8月12日付の大内義隆感状(安芸白井文書)に現れる『甘崎要害』が甘崎城について初めて書かれた古文書だとしています。また大内氏の傘下にいた白井氏が家臣の被害状況を報告した白井房胤手負注文に『三嶋 甘崎 岡村 能嶋 印之嶋』の名前が見られます。
今のところこれ以上の情報は見つけられませんでした。もし新しい発見があれば追記します。
おしまい!