巨大な城郭群の中心に位置する松倉城へ!越登賀三州志・故墟考から歴史を振り返る【富山の旅】

松倉城

松倉城は魚津市の南部に位置する鹿熊山の頂上に築かれた連郭式の山城です。その規模から増山城(砺波市)、守山城(高岡市)と共に越中三大山城の一つに数えられています。

松倉城を守るように、升方城や水尾城、石の門砦が西側(富山方面)の防衛線を形成しています。

一方、東側(黒部方面)の防衛線として天神山城を配し、さらに、陸海路・河川交通の要衝の平野部に魚津城を配しています。また、市域を流れる早月川や角川、片貝川、布施川は、天然の堀の役割も果たしていたと考えられます。

魚津市教育委員会 松倉城とその支城群より

一帯の統治者は松倉城を死守しなければなりませんでした。なぜなら城の背後に金山を抱えていたからです。故に広範囲に亘る堅牢な城郭群が築き上げられたのでしょう。

それでは、江戸時代後期の越登賀三州志・故墟考を引用しつつ松倉城の歴史を振り返ってみましょう。

 

松倉城へのアクセス

松倉城

最寄りの高速出口は滑川ICか魚津ICです。とっても細い山道を進みます。

道程が複雑なのでカーナビか地図アプリで事前に登録してから向かいましょう。

本丸の間近まで道が繋がっており、終点には数台停められる駐車場があります。

 

松倉城の歴史

松倉城

元弘中椎名孫八入道居タリ

建武二年乙亥名越時兼越中ニ起ル時野尻玄蕃允ヲ嘱ミ兵子ヲ募キ杉本城ニ據テ椎名孫八ノ魚津城ヲ攻ムトアリ魚津城ハ松倉城也ト云説アリ此説得之

三州志故墟考 卷之二 松倉 鹿熊より引用

元弘年間(1331~1334年)、椎名孫八入道がいた。
建武2年(1335年)乙亥、名越(北条)時兼が越中にて挙兵した時、野尻玄蕃允を頼って兵士を募り、杉本城によって椎名孫八の魚津城を攻めるとあり。
魚津城は松倉城であると云う説がある。この説はこれから得る。

『此説得之』の後に著者の注釈があります。長文なので要約して紹介しましょう。

 

言い伝えによると鎌倉将軍の時代から松倉城は椎名氏代々の居城で、元弘の乱の時に椎名孫八がいたと太平記に記されている。孫八は越中五雄将の一人で肥前守を通称とした。

椎名氏は関東下総の豪族・千葉氏の流れを組む一族だと伝わります。

 

松倉城

同年十一月二十七日普門藏人利清此城ニ據テ中院少將定清ヲ撃

暦應元年戊寅越後ノ大井田彈正少弼新田義貞ニ應シテ越中ニ攻入ルノ時利清防戰不遂此ノ城ニ保ム

貞治五年丙午桃井直常井口城ニ在ルノ處斯波義將ノ爲ニ攻ラレ松倉城ニ保ム

應安二年巳酉直常同直和之ニ居セリ四年辛亥秋七月桃井ノ殘黨蜂起シテ這城ニ據リシコトアリ

三州志故墟考 卷之二 松倉 鹿熊より引用

建武2年(1335年)11月27日、普門蔵人利清(井上俊清)が松倉城に拠って中院定清を討つ。
暦応元年(1338年)戊寅、越後の大井田弾正直少弼(大井田氏経)が新田義貞に応じて越中に攻め入る時、利清は防戦が上手くいかず、この城に籠る。
貞治5年(1366年)丙午、桃井直常が井口城にいたところ、斯波義将に攻められ松倉城に籠る。
応安2年(1369年)巳酉、直常・直和はこれに居て、応安4年辛亥秋の7月に桃井の残党が蜂起して、この城に拠ったことがある。

井上俊清は後醍醐天皇が興した建武政権(南朝)で越中国の守護に任じられた武将です。然る後、室町幕府を開いた足利尊氏(北朝)に味方し、南朝の中院定清を石動山で討ち取ります。

尊氏に追われる新田義貞が同族の大井田氏経を頼って越中入りを試みますが、義貞は討ち死にし新田軍は壊滅。松倉城には井上俊清が籠城したと伝わります。

室町幕府から越中守護に指名された桃井直常は足利尊氏・直義兄弟の内乱(観応の擾乱)に巻き込まれ、弟の直義の有力武将として活躍。

直義が亡くなると直義の養子に入っていた足利直冬を擁立し反幕府勢力として活動しています。その後、越中国守護の斯波義将らと争い敗走、そのまま消息不明となりました。

南北に分かれ争い、北朝内部は兄弟喧嘩…。みんな付いたり離れたり。

この時代は本当にややこしい。

 

松倉城

永正七年庚午長尾爲景上杉顯定ヲ越後長森原ニ斃ス後松倉金山ニ城主椎名越中守勝胤能州ノ畠山義統ニ通スト云コト見ユ

天文十四年乙己畠山種長ノ將唐人兵庫山下左馬助ヲシテ此城ヲ守ヲシムル處夏四月三日爲景其將宇佐美駿河定行ヲ從ヘ兵ヲ驅テ之ヲ圍ミ城陷ツ此の後椎名右衛門入道道三其子肥前守泰種據ルヲ

永祿六年癸亥(泰種代)八月十日謙信此城ヲ攻取リ城ノ修理ヲ爲シテ歸國トアレトモ其後泰種再ヒ攻取リ此城ニ入カ

八年乙丑武田信玄越中ヘ侵入ノ時松倉城主泰種二男龜松ヲ質トシテ信玄へ降ルコト軍鑑畧譜ニ見ヘ

或ハ元龜二年辛未三月謙信復此城ヲ屠リ泰種ノ領六万貫暨ヒ此城ヲ寵將河田豐前長親ニ與フト云ヒ

又武德編年集ニハ天正元年癸酉九月朔日謙信金山松倉ニ城ヲ陷シ椎名肥前守下城シテ上杉ニ属ストアリ此間説々錯亂次第シ難シ

三州志故墟考 卷之二 松倉 鹿熊より引用

永正7年(1510年)庚午、長尾為景が上杉顕定を越後長森原にて倒す。その後、松倉金山2城の主・椎名勝胤が能州の畠山義統に通じると云うことが見える。
天文14年(1545年)乙己、畠山種長の将である唐人兵庫、山下左馬助にこの城を守らせたところ、夏4月3日に為景の将・宇佐美定行を従えて兵を駆けて松倉城を囲み城を落とす。この後、椎名右衛門入道道三の子・泰種が入城する。
永禄6年(1563年)8月10日、泰種の代に上杉謙信がこの城を攻め取り、城の改修をして帰国とあるけれど、再び泰種が松倉城を奪取し入城か。
永禄8年(1565年)乙丑、武田信玄が越中へ侵攻したとき、松倉城主・泰種の二男である亀松を人質として信玄に降ることが軍鑑畧譜に見える。
或いは元亀二年(1571年)辛未3月、上杉謙信がまたこの城を落城させ泰種の領地6万貫、及びこの城を寵臣の河田長親に与えると云う。
また、武徳編年集には天正元年(1573年)癸酉9月1日、上杉謙信が金山、松倉の2城を落とし、椎名肥前守は城を出て上杉氏に属したともある。
この期間は様々な説が錯綜し難しい。

越後統治に失敗した上杉顕定が長森原の戦いで長尾為景らに敗北。(長尾為景は上杉謙信の実父)

松倉城の椎名勝胤(慶胤?)が能登国の畠山義統に通じるとあります。畠山義統は明応6年(1497年)に亡くなっているので次代の義元か義総ことかもしれません。

慶胤は守護畠山氏から独立を目論む神保慶宗に助力したため、畠山氏と長尾為景の連合軍に打ちのめされ敗死したと云います。

慶胤の亡き後、椎名長常、次いで椎名康胤(故墟考だと泰種)が跡を継ぎ松倉城に入城したようです。ただ畠山氏や長尾氏の支配下だったため肩身の狭い思いをしました。

それから椎名康胤と富山城の神保長職との間で激しい争いが始まります。

康胤は上杉謙信の助力を得て急場を凌ぎますが、何を思ったか武田信玄に通じて上杉氏を裏切ったため怒った謙信に松倉城が奪われてしまいます。

その後、椎名康胤は再び上杉氏に従った、或いは死亡したとも伝わり詳細はわかっていません。

『此間説々錯亂次第シ難シ』とあるようにこの辺りの歴史は様々な説が入り混じっており非常に難解です。

 

松倉城

六年椎名小四郎道之(泰種族ナラン混目集ニハ孫六ノ子ト云)復這城ニ據ルヲ上杉景勝攻テ道之三戶田ニ遁ル是ヨリ景勝ノ將村田縫殿介等津毛城ヨリ玆ニ移ル此後又河田等數將此城ヲ守ルヲ

十年(本朝三國志作八年又一説作九年並非也)夏四月(一作五月)信長公ヨリ國祖暨ヒ柴田勝家等諸將ヲシテ攻圍マシム

六月陷城時ニ信長公本能寺ノ變アルニヨリ諸將軍ヲ緩ム

或云慶長ノ初メ國祖這市地巡覧此城ヲ廢シ升形山ヘ引移ト云

三州志故墟考 卷之二 松倉 鹿熊より引用

天正6年(1578年)、椎名道之が再びこの城に拠ると、上杉景勝が攻めて道之は三戸田(水戸田?)に遁れる。
これより景勝の将である村田縫殿介らが津毛城からここに移る。この後に数將がこの城を守る。
天正10年(1582年)夏4月、織田信長公より国祖(前田利家)及び柴田勝家らの諸將をして松倉城を攻囲させる。
6月、落城時に信長公が本能寺の変で横死したため諸將が攻撃を緩める。
或るに曰く、慶長の初め国祖がこの土地を巡覧し、この城を廃城とし升形山に移したと云う。

信長公記には上杉軍の将として椎名小四郎が登場しています。景勝に敗れた後、従って信長と戦ったということか?

九月廿四日、斎藤新五越中へ仰付けられ出陣。国中太田保の内つけの城、御敵椎名小四郎・河田豊前人数入置き候。尾・濃両国の御人数打向ふの由承り及び、聞落に退散致し、

信長公記 小相撲の事より引用

天正6年9月24日、斎藤利治が越中攻めを命じられ出陣。越中では太田保の津毛城に敵の椎名小四郎と河田長親が軍勢を入れていた。尾張・美濃の軍勢が進軍していると聞くに及んで、恐れて退却した。

 

寅十月四日、斎藤新五、越中国中太田保の内本郷に陣取り、御敵河田豊前守・椎名小四郎、今和泉に楯籠候。

信長公記 越中御陣の事より引用

天正6年10月4日、斎藤利治、越中国の太田保の内本郷に陣を取り、敵の河田長親と椎名小四郎は今和泉に籠城する。

織田勢の柴田勝家、佐々成政、前田利家らによる越中攻めで松倉城は落城しています。ところが本能寺の変で織田信長が横死したため織田勢は混乱し、上杉方は再びこれを奪取。

その後、越中国を支配した佐々成政の手に渡りますが、豊臣秀吉と上杉景勝に挟まれた成政は降伏し、その領地は前田利家に封じられました。

前田利家の巡覧の後、松倉城は廃城となります。治平の世に松倉城のような山城は不便だったのでしょう。

 

終わりに

松倉城

]情報が故墟考だけでは微妙かなと思い、他の情報と照らし合わせながら書きました。

すると年号や人物、様々な事柄が一致しないことが多く、かなり混乱しました。

説明不足だったり、誤情報がある可能性がありますので、正確さを求める方は御自身で調べてみて下さい。

上の写真は『石の門』と呼ばれる史跡。ここは西玄関の役目を果たしました。松倉城跡からは少し離れた位置にあります。

おしまい!

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