岩国城は毛利家臣の吉川広家が江戸時代初期に築城した山城です。
城は標高およそ200mの山に築城され、その麓には城を囲うように錦川が流れています。
今回は1962年(昭和37年)に復元された岩国城天守の様子と関ヶ原の戦い以後の吉川広家について見ていくことにしましょう。
それでは参ります!
岩国城の場所
山陽自動車道の岩国ICを下りて右折し国道2号線を道なり進むと青看板に『錦帯橋』とあります。それに従って右折すれば到着します。駐車場(上の写真)は錦帯橋直ぐ近くの川岸にあります。小石が多い駐車場なので車高が低い車は危険かもしれません。混雑時は駐車料金が発生するとのことです。
岩国城は錦帯橋を渡った先にあるロープウェイから行くことが出来ます。
錦帯橋のチケット売り場で橋、ロープウェイ、岩国城のセット券が『大人:940円 小学生以下:450円』で売っています。
吉川広家と宰相殿の空弁当
1600年の関ヶ原の戦いで吉川広家は複雑な立場に置かれていました。
主家の毛利輝元が西軍の総大将だったにもかかわらず広家は徳川家康(東軍)が勝つと予想して早くから家康に内通していました。
宰相殿の空弁当という広家にまつわる有名な故事があります。
西軍を裏切っていた吉川広家が毛利軍の邪魔をして進軍停止させたことを訝しく思った背後の長宗我部盛親が出陣要請したときに生まれた故事。
毛利軍を率いていた内の一人、毛利秀元が盛親の出陣要請に対して放った言い訳が『今、兵士に弁当食べさせているから出陣出来ないっス!(超訳)』というものでした。
結局、毛利氏は動くことなく東軍に寝返った小早川秀秋(この人物も毛利氏と関係がある。)によって西軍は敗走してしまいます。
岩国城の築城
勝者の徳川家康は当初、毛利氏を改易にする予定でした。
しかし吉川広家が家康を説得したことで毛利氏は領地こそ減らされてしまいますが、滅亡を回避しています。
そして吉川広家は毛利氏から岩国領を与えられ岩国城を築城しました。
ところが岩国は藩として認められませんでした。これは関ヶ原の戦いで広家が裏切ったことをよく思っていない人がいたからです。
一応は毛利の名を存続させたから蔑ろにはできないな…。でもなんかムカつくから藩主にはしない!みたいな感じかな?
吉川広家と毛利秀元
吉川広家のことを特に毛嫌いしていたのは関ヶ原の戦いで邪魔をされた毛利秀元です。
吉川広家は関ヶ原の戦いのこともあり表向き政治に参加しなかったようです。
毛利秀元との衝突を避けるため毛利氏の政治を任されていた福原広俊と組み裏でこっそり動いていました。
吉川広家と大坂の陣
1614年~1615年に起きた大阪の陣(豊臣vs徳川)で毛利氏は徳川幕府に味方します。
しかし佐野道可事件という問題が起こってしまいます。この事件は毛利氏と血縁関係にあった佐野道可(内藤元盛)が大阪城に籠城して徳川氏に反抗したことから始まります。
徳川氏は毛利氏の謀反を疑い調査しますが、毛利家臣の福原広俊らの活躍により潔白を証明することが出来ました。
事件の真相はわかりませんが『佐野道可が勝手に豊臣氏に味方した説』や『毛利輝元、当主の秀就、家臣筆頭の秀元が佐野道可を暗躍させた説』などあります。
関ヶ原の戦いに続き毛利氏は存続危機に陥りますが滅亡の危機は回避しました。
そして1614年に吉川広家は隠居し息子の広正に家督を譲ります。
隠居したものの跡継ぎの広正はまだ若かったため岩国領の実権は広家が握り続けました。
岩国城の廃城
1615年、幕府から一国一城令が出され岩国城は取り壊されてしまいます。
築城された年が1608年なのでたった7年で廃城になってしまいました。
そして1625年、吉川広家はその生涯を閉じます。
終わりに
歴史に『もしも』はありませんが、もし吉川広家が毛利秀元に『お弁当を食べさせなかったら』徳川家康の天下はなかったかもしれません。或いは毛利氏が滅亡していたかも。
毛利氏が消えれば後の長州藩は存在しないことになるので明治維新が起きませんね。まぁ、代わりの誰かが似たようなことをやってのけたかもしれませんが。
写真は復元された岩国城天守から見る錦帯橋です。よい景色でした。
訪問して感じましたが、岩国城は明らかに戦闘用(籠城)に造られた山城なんですよね。
築城は江戸時代に入ってからなので戦国時代から比べれば戦の数は減り平和になっているはずですが、吉川広家は油断大敵とここを選んで城を造ったのかもしれません。
彼の仮想敵は徳川幕府だったのか?政敵の毛利秀元?再び戦国の世が訪れる思っていたのでしょうか?
おしまい!