天文十九年(一伍伍〇)貴久は伊集院から鹿児島に移った。清水城の南、今の『大竜寺跡』に内城を築いてこれに拠ることになったが、この内城(本御内)は慶長七年(一六〇二)島津忠恒が鶴丸城(上之山城)に移るまで島津氏の居城となった。
鹿児島市史第1巻 第3編 中世編 第4章 戦国・織豊期時代の鹿児島より
島津貴久はそれまでの居城だった清水城を出て内城を築城します。貴久の長子である義久もここを居城としました。
薩摩藩初代藩主の島津忠恒が鶴丸城(鹿児島城)を築き、そこに移ると内城は使用されなくなり大龍寺が建立されます。
大龍の名は島津貴久の戒名『南林寺殿大中良等庵主』と島津義久の法号『龍伯』から取られています。
写真は文之和尚記念碑。
南浦文之は鉄砲の伝来について書かれた鉄炮記の編纂者として有名です。
隅州之南有一嶋去州一十八里名曰種子我祖世々居焉古來相傳嶋名種子者此嶋雖小其居民庶而且冨譬如播種之下一種子而生々無窮是故名焉先是
鐵炮記より
私の先祖は代々ここに住んでいる。古来から言い伝えがある。島を種子と名付けるのはこの島は小さいけれど皆富んでいる。
例えば種を播くとき一粒播けば生き生きとしいつまでも終わることがない。これが理由で名付けられた。
訳はこんな感じだと思います。
このあと『天文癸卯秋八月二十五…』と続き種子島に鉄砲が伝わった様子を描写しています。
現在、大龍寺跡には大龍小学校があります。
写真は明治17年に建立された大龍小学校旧校門柱です。
校庭に内城に関する石碑があるという情報を得ていたので、見学の許可をもらうため小学校に電話しました。
初めは『どうぞ。』と仰っていたのですが、私が『石碑はあるのか?あるとしたらどこら辺りに?校庭で授業をしているけど問題ないか?』と質問すると『そういうものはありません。外からどうぞ。』といわれてしまいました。
石碑は本当にないのか?それとも対応した方が知らなかったのか?はたまた電話越しの私を不審に思ったのか?
いずれにせよ、残念でした。
もっと粘れば情報を引き出せたかもしれませんが、私は取材とか向いていないタイプで『ない。』と突っ込めずすぐ引き下がってしまう性格なんです。
終わりに
蓑懸松跡地と説明がありました。
内城や大龍寺があった頃ここに松が植えられていたようです。
この松に城や寺に来た人々が蓑を掛けたことから蓑懸松と呼ばれました。
写真の松は平成元年に再植されたものです。
この辺りは大龍遺跡と呼ばれ大龍小学校では過去9回の発掘調査が行われています。中世の井戸や上の写真にある石の水道管が発掘されました。
今回は内城跡を目当てに訪問しました。しかし現地に内城に関しての情報は殆どありませんでした。
発掘調査で内城がどのような城だったのかはわからなかったのだろうか?
少しでも判明したことがあるのならば、是非知りたいものです。
おしまい!