臼杵市の城下町は風情があります。
古めかしさの中に新しきを取り入れた街並みには感心するばかりです。
歴史が好きな方は勿論、それ程興味のない方でも、あの街並みを散策するだけで充分に楽しめることでしょう。
さて、そんな城下町の中心にあった臼杵城とはどんなお城なのか?
臼杵城の風景とその歴史について紹介致します。
臼杵城へのアクセス
東九州自動車道の臼杵ICを下りて右折します。
しばらく直進して中須賀橋東の信号を右折すると臼杵城の案内板が出てきます。
駐車場は城の近くにある市営下屋敷前駐車場が便利です。
臼杵城の歴史
臼杵城は戦国時代に豊後国を支配した大友宗麟が築城しました。
築城年ははっきりと判明していませんが、1556年前後若しくは1562年前後だといわれています。
臼杵湾に浮かぶ丹生島に築城されたため丹生島城とも呼ばれました。現在は陸続きになっています。
城主の大友宗麟は大分市にある大友氏館で政務を執り行っていましたが、敵との戦いが激しくなることを見越し、より堅守な臼杵城に入城します。
大友宗麟は九州の覇者になり得る力を持っていましたが、他勢力の台頭を許してしまったため衰退の一途を辿ります。
自家の国力では既に手遅れだと悟った宗麟は、織田信長や豊臣秀吉に助力を求めました。
織田政権を奪った豊臣秀吉は天下統一を目指すべく九州へ出兵し反抗する薩摩の島津氏に攻撃を開始します。
しかし九州征伐(豊薩合戦)の緒戦である戸次川の戦いで豊臣、大友勢は島津軍に大敗。結果、大友氏の領地は島津軍によって滅茶苦茶にされてしまいます。
その際に臼杵城も島津氏に攻め込まれました。
臼杵城の戦いでは年老いた大友宗麟自らが指揮を振るい、臼杵城の堅牢さと国崩し(大砲)の力によって見事に守り切っています。
豊薩合戦で大友氏は島津軍に多くの城を落とされ滅亡寸前になっています。
大友宗麟は戦後すぐに死去。島津氏が豊臣秀吉に降伏する少し前のことでした。
晩年の宗麟はストレスMAXだったでしょう。
それまでに自由奔放な生き方をしてきたので自業自得かもしれませんが…。
後継ぎの大友義統は秀吉に従いそれなりの身分を与えられましたが、朝鮮出兵(文禄の役)で仲間を見捨て逃亡したと咎められ改易に。
その後、大友義統は復興のため立ち上がりますが、石垣原の戦いで黒田官兵衛、細川忠興に敗れ夢潰えます。
大友氏が改易になると豊臣家臣の石田三成と関係が深かった福原直高や太田一吉が臼杵城に入城します。
ところが1600年の関ヶ原の戦いで状況が一変。
病を理由に臼杵城に籠っていた太田一吉は中川秀成に攻め込まれてしまいます。
秀成は東軍(徳川家康)からの『あいつ西軍か?!』と疑われていたため嫌疑を晴らす目的で必死に臼杵城を攻撃。
一方の太田一吉は若造に意地でも城を明け渡したくなかったようで『知り合いの黒田如水だったら城を明け渡すけど。お前じゃ無理!』と徹底抗戦。
両軍は佐賀関でぶつかり、中川勢は大損害を受けてしまいました。
戦いの熱意が徳川家康に届いたのか、中川氏は家康から信頼を得て岡藩主に任じられ明治維新まで子孫代々栄えることになります。もし評価を得られなければここで没落していたでしょう。
太田一吉は黒田如水に城を明け渡し剃髪、隠棲します。
関ヶ原の戦いが終わると稲葉貞通に臼杵が与えられました。
爾來、明治維新まで稲葉氏が15代に亘って臼杵を治めることになります。
明治政府の廃城令により卯寅口門脇櫓、畳櫓以外の建物が破壊されてしまいました。
明治10年の西南戦争では藩の旧士族たちが集い臼杵隊を結成し攻寄る薩摩軍と対峙します。
物量に劣る臼杵隊は負けてしまい城は占領されてしまいますが、援軍が上陸し明治政府軍が奪取します。
自分の土地は自分で守るという熱い心意気が感じられますね。
終わりに
以上が臼杵城についてでした。
近くに稲葉家の屋敷跡がありますので時間がある方はそちらもおすすめします。
おしまい!