別府温泉が戦場に?豊後大友氏最後の合戦・石垣原の戦いについて

天下分け目の合戦、関ヶ原の戦いは各地の大名や浪人らの思惑が入り乱れた壮大な物語です。

九州では豊後大友氏の再興を目指す大友義統と九州統一を狙った黒田官兵衛が石垣原で死闘を繰り広げました。

結論からいいますと黒田官兵衛の勝利で大友義統の再興の夢は叶いませんでした。

それでは石垣原合戦古戦場を紹介します!

 

石垣原の戦いについて

豊後国の大友宗麟は薩摩国の島津氏との戦い(豊薩合戦)で追い詰められたため、豊臣秀吉の傘下に入り助けを乞いました。

秀吉の援軍により窮地を脱しましたが、宗麟の息子・義統が秀吉の怒りを買い改易になってしまいます。

朝鮮出兵で義統が敵前逃亡したのが原因だと云われている。

大友義統本陣跡

石垣原の戦い

秀吉が亡くなった後、義統は赦され再び豊臣の傘下に入りますが、豊後の領地が返されることはありませんでした。

1600年の関ヶ原の戦いでは息子の大友義乗が徳川家康に従ったため、義統も初めは東軍の味方になるつもりでしたが…。

毛利輝元や石田三成に『西軍の味方をするなら豊後領を与えよう。』と誘われたため西軍の将軍として九州に入り別府の立石に陣を構えました。

相手は百戦錬磨の将・黒田官兵衛と細川忠興です。

 

大友左翼・宗像掃部鎮統の陣跡

石垣原の戦い

散り散りとなった旧臣の一部が大友氏の再興を目指して義統の軍に加わります。

宗像掃部(むなかたかもん)は恐らく福岡県の宗像大社に縁ある人物だと思われますが、詳細はわかりません。

彼は御堂原の台地に布陣し大いに奮戦し、激戦の中で討ち死にしたといわれています。

 

石垣原の戦い

御堂原からの眺め。

真ん中の仏舎利塔がある小高い山の一帯に黒田・細川軍は陣を敷きました。

 

大友右翼・吉弘統幸の陣跡

石垣原の戦い

吉弘統幸は豊後大友氏の重臣の高橋紹運や立花宗茂と同族です。

かなり優秀な一族だったと伝わります。

統幸は東軍に付くべきだと義統を説得しますが、譲らないため仕方なく西軍として戦いました。

 

石垣原の戦い

吉弘統幸陣からの眺め。

黒田・細川本陣がよく見える位置です。(マンションが無ければ)

吉弘統幸は黒田・細川本陣がある実相山の麓まで迫っています。しかし、逆襲を受け討ち死にしてしまいました。

恐らく統幸は忠義のためだけに戦ったのでしょう。

 

石垣原古戦場跡の碑

石垣原の戦い

ここには石垣原の戦いで戦死した兵を弔う五輪塔や供養塔が並んでいます。

 

石垣原の戦い

吉弘統幸の辞世の句が石碑に刻まれていました。

あすは誰が 草の屍や てらすらん

石垣原のけふの月影

 

激戦地の七ツ石

石垣原の戦い

両軍は山を下り何度も刃を交えました。

この七ツ石付近で激しい戦闘が行われ原野は真っ赤に染まったと伝わっています。

現在ここには七ツ石稲荷神社と七ツ石温泉があります。

 

黒田官兵衛本陣跡

石垣原の戦い

黒田官兵衛の九州攻略にどのような思惑があったのか?

官兵衛は九州にある西軍の城を落としつつ敵兵を仲間に受け入れ軍を拡大されていきます。

官兵衛の野心を表す逸話が有名です。

薩摩の島津氏と結託し徳川家康に反旗を翻し、諸大名を味方に付け天下統一を目指す。
息子の黒田長政が関ヶ原で活躍。
家康に握手を求められたのが名誉だったと官兵衛に伝える。
官兵衛『どっちの手で握手した?もう片方の手は何をやっていたんだ?』

 

黒田先行隊・時枝鎮継陣跡

石垣原の戦い

時枝氏は宇佐神宮弥勒寺の寺務方を代々務めた家系です。

反大友勢力で九州征伐後に豊臣秀吉に従い黒田氏が中津に入封してから協力するようになりました。

石垣原の戦いでは主力武将として先行隊を任されています。

 

黒田・細川の本陣跡

石垣原の戦い

黒田・細川軍はここ実相山に本陣を構えました。

現在仏舎利塔が建っています。

 

石垣原の戦い

実相山から見る景色。

写真真ん中の山の麓辺りが大友義統本陣。

左端の麓に吉弘統幸の陣がありました。

お互いの軍がよく見える位置で戦ったのですね。

大友軍約2000人。黒田軍約10000人。

序盤こそいい勝負出来ましたが多勢に無勢…。

大友氏は重要な家臣たちを失い降伏します。

 

終わりに

石垣原の戦い

大友義統は海雲寺で剃髪し降伏しました。

義統は幽閉され1605年に無念の内に亡くなります。

官兵衛は石垣原の戦いが終わるとすぐに西軍の城を落とし更に進軍します。

しかし徳川家康から進軍中止の命が下り従います。

その後、ご存知の通り江戸幕府が開かれ、しばらくの間日本に平和が訪れましたとさ。

おしまい!

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