日本三大平山城の一つに数えられる津山城へ!何故、津山藩は財政難に悩まされたのか?【岡山の旅】

津山城

津山城跡 天守台の説明板より

岡山県津山市にある津山城跡に行ってきました。

上の写真は明治時代に撮られた津山城です。

いちのまる
いちのまる

立派な天守です。五層あったそうですよ。

津山城は日本三大平山城の一つとして有名です。
(他二つは姫路城と松山城)

それでは津山城及び津山藩の歴史について紹介します!

 

津山城跡へのアクセス

津山城

中国自動車道津山ICを下りて岡山、津山方面に進み国道53号線に入ります。

7~8分そのまま進み、船頭町の信号を右折します。

鶴山西口を右折して突き当りを右へ曲がると駐車場があります。

電車ならJR姫新線の津山駅から徒歩で10分くらいです。

 

津山城の歴史

津山城

1441年、山名忠政が鶴山と呼ばれる丘に砦を築城しました。この砦は鶴山城と呼びます。

山名氏は清和源氏・上野国新田氏の流れを汲む名家。応仁の乱で西軍の総大将を務めた山名宗全が有名です。

時は進んで江戸時代初期、津山に入封した森忠政が鶴山城の跡地に津山城を築きました。

 

森氏統治時代

津山城

津山城は1604年(慶長9年)に起工し、1616年(元和2年)に完成しています。

築城者の森忠政は織田信長の家臣・森可成の六男として生を受けました。

兄弟に鬼武蔵こと森長可や信長がぞっこんだった森蘭丸がいます。

忠政には多くの兄がいましたが、みんな戦死しています。

まさか自分が当主になるとは思ってもいなかったでしょう。

ちなみに本人は桃を食べたことによる食中毒で亡くなっています。

 

森氏改易

津山城

森忠政の息子は早世してしまったため外孫の長継が跡を継ぎます。

森長継は忠政の事業を引き継ぎ津山を発展させることに成功しました。

森氏は『森忠政→長継→長武→長成』と4代に亘って津山を治めています。

森長成(長継の孫)が早世し、さらに世継ぎがいなかったため長継の九男・衆利が跡継ぎに選ばれます。

(まだ生きていた)森長継は後継問題を幕府に訴え許可を得ますが…。

将軍に挨拶するため江戸に向かっていた衆利が伊勢で乱心してしまいます。

このことが幕府の耳に入り、森氏は改易になってしまいました。

1697年のことです。

後に森氏は再興し赤穂藩主となっています。

 

越前松平氏の時代

津山城

森氏改易後、一時的に津山は天領となりました。

そして1698年、越前松平氏の松平宣富が入封します。

松平宣富(のぶとみ)は徳川家康の次男・結城秀康の曾孫に当たる人物です。

 

困窮する津山藩と一揆

津山城

宣富が入封してすぐに高倉騒動が起きています。

これは年貢の高さに悲鳴を上げた農民が起こした一揆です。

森氏が治めていた時の年貢は七公三民、幕領時は五公五民、越前松平氏入封後は六公四民でした。

幕領時よりは厳しくなっていますが、森氏の時から比べればマシな割合にみえます。

何が問題だったかと言うと越前松平氏が新たに設定した付加税です。

この付加税が高かったため森氏が治めていた時よりも農民の困窮が進んでしまいました。

大庄屋の堀内三郎右衛門は役人に『幕領の時と同じ税率にして欲しい。』と伝えました。

もちろんそのような話が通るわけもなく農民の肩を持ったとして堀内三郎右衛門、他7名が処刑されています。

 

津山城

3代目・松平長煕の時代には山中騒動(1726年)が起こりました。

藩の運営は非常にお金がかかるため全国諸藩の財政は逼迫状態であることが普通でした。

越前松平氏も例外ではなく初代の頃より財政難に陥っていました。

それに加え江戸屋敷が3度も火災に遭ったため、家臣たちから借上をしてその費用に充てる有様だったと云います。

こうなると下々の人々から多くの税を徴収するしかありません。

津山の農民たちは重税を課せられます。最悪なことは重なります。

地震、大火、大雪、干ばつなどの自然災害が津山の農民たちを襲いました。

農民らは飢餓に襲われ、庄屋から止む無く借金をすることに。

 

津山城

農民を束ねていた庄屋は苦しむ彼らに高金利でお金を貸し付けます。

上述した高倉騒動に懲りた藩は庄屋を優遇していたため、庄屋はやりたい放題です。

農民と庄屋の対立は見過ごせないものとなってしまいます。

そうこうしているうちに越前松平氏2代目・松平浅五郎が11歳で早世。

当然子供はいませんので跡継ぎ問題が発生します。こういう場合、本来なら断絶改易になるところですが、越前松平氏は結城秀康を祖とする名家です。

例外として浅五郎の従兄弟である長煕が跡取りとして認められました。

がしかし、このことにより石高が10万石から5万石に減らされてしまいます

ただでさえ財政難に陥っているというのにまさかの減封です。

上から下までみんな大混乱。

そして山中地域の農民が中心となって暴動を起こします。

次第に暴徒の数は膨れ上がり庄屋の蔵などを打ちこわしを始めました。

山中は藩が5万石に減封されて出来た残りの5万石に該当する地域でした。農民は再び幕領になるかもしれないと予想して一揆を起こしました。もうおまえら(藩)の言うことなんか聞くもんか!って感じなのかな。

藩としては混乱状態の領地を受け渡すわけにはいきません。

一揆に対し強制措置を行います。

農民らも抵抗を見せますが、武装した武士団に勝てるわけありません。

首謀者が逮捕され始めると暴動は鎮静化していきました。

山中騒動で逮捕された農民は147人、内51人が死罪となりました。

 

津山城

山中騒動から13年後の1739年、元文騒動という一揆が発生しています。

津山藩、及び幕領内で起きた一揆ですが、所謂農民が武装して暴徒化した一揆ではなく、物乞いや押乞いになって御上を強請る変わったものでした。

次第に物乞いは1000人以上に膨れ上がり乱暴狼藉を働く者も出てきてしまいます。

津山藩は兵を出し鎮静化に取り組みます。

元文騒動では598人が処罰されています。

主犯格の2名が死罪、幾人かが追放、残りの殆どは急度叱の罰を受けています。

急度叱は公に凄く叱られるという軽度の罰です。

全体的に罰が軽かったのは『暴力的な一揆ではなかった』『山中騒動で農民をあまりに厳しく取り締まり過ぎたことを考慮した』からだと思われます。

 

幕末から明治にかけて

津山城

これまで散々な津山藩でしたが7代藩主・松平斉孝の代に大きく変わります。

1815年、松平斉孝は幕府に対して養子を要求しました。

幕府は徳川10代将軍・家斉の十四男である斉民を養子に送ります。

そしてこれを機に5万石加増されました。

斉孝の跡を継いだ松平斉民は津山の発展に大きく貢献しています。

幕末の激動期には勤王派として幕府を支え、江戸城が無血開城すると徳川16代宗家の徳川家達の後見を務めています。

斉民は1891年(明治24年)に亡くなりました。

 

終わりに

津山城

越前松平氏は『斉孝→慶倫→康民→康春…、』と現在まで続いているようです。

松平康民の息子に渡辺明という方がいらっしゃいます。この方は文豪・谷崎潤一郎の妻である松子の妹である重子と結婚しました。

いちのまる
いちのまる

谷崎潤一郎作『細雪』の三女・雪子の旦那のモデルが渡辺明です。

津山城とは殆ど関係のない話ですが、谷崎潤一郎が大好きな私としては見逃せない情報でした。

雪子さんこんな身分の高い人に嫁いだのね。だからお腹下しちゃったのかな…。

おしまい!

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