熊本懸上益城郡白糸村に一石橋あり、通潤橋といふ。
用水疎通の爲め深谷に架設せられたるものにして、三條の石樋左岸より斜に下りて橋上を直進し、斜に對岸の丘陵に上るの裝置にして、安政元年の秋、時の矢部鄕長布田惟暉の築造に係れり。
地方行政史料小鑑 用水疎通の目的に成れる通潤橋より
通潤橋は江戸時代後期に用水確保を目的として築造された石橋です。
白糸村(現・山都町)には緑川という大きな河川が流れています。しかし川は深い谷の底を流れていたため用水の確保に大変苦労したそうです。
そこで惣庄屋の布田保之助(惟暉)は用水橋を架け谷の対岸から水を導こうと考えたのでした。
通潤橋へのアクセス
熊本市方面からは九州中央自動車道の山都中島西ICを下り左折。15分程進み、山都町上寺の信号を右折します(信号手前の青看板に通潤橋と書かれている)。そして山都町下馬尾を左折(ここも看板有)、道なりに進むと『道の駅・通潤橋』があります。
宮崎方面からは国道218号線をひたすら進み山都町畑の交差点を左折します(手前に『道の駅・通潤橋』の看板有)。突き当たりの三叉路を右へ(ここも看板有)。また突き当たるので左へ。次の信号を斜め左に入った先が通潤橋です。
通潤橋の歴史
写真の像は通潤橋の架橋を取り仕切った矢部手永の惣庄屋である布田保之助です。
現在、保之助が実施した事業として、
<農業>用水・ため池(堤):22か所 石磧(堰):12か所
<交通>道路:162か所 眼鏡橋:13か所
現地案内板 通潤橋より
布田保之助はひたすらに地域のため尽力した偉人です。
通潤橋の功績だけが目立っていますが、上記の通り数多くの実績を残しています。
通潤橋の築造には相当な研究が重ねられました。
同国で数年前に完成したばかりの石橋・霊台橋の調査、熊本城の石垣の仕組みも視察。そして豊後国(大分)まで出向き熟練の石工に教えを請うこともありました。
また霊台橋の築造で活躍した種山石工の丈八(後の橋本勘五郎)などにも声を掛け万全を期しています。
通潤橋落成時の逸話が残されています。
やがて通水式の日が來た。布田は羽織、袴の禮裝を身に纒ひ、短刀を懐にして眼鏡橋の中央に端座した。
部下の監督二名も萬一の場合には、布田に殉ずる覺悟を以て橋下に立ち、臺橋取除に當つて人夫に怪我、過のないやうに取締つてゐた。
近代日本文化恩人と偉業 第十篇 布田保之助翁より
布田は通水式の際、正装し懐に短刀を忍ばせ通潤橋の中心に姿勢を正して座りました。部下の監督2名ももしもの時は布田に殉ずる覚悟をもって橋の下に立ち、台橋の取り除きに当たって作業員に怪我や過ちが無いように取り締まりました。
万が一橋が崩れるようなら切腹する覚悟だったということですね。
生きるか死ぬかの覚悟で事業を成功させたからこそ現在まで布田保之助の名が語り継がれています。
現在の世の中で『この精神を見習え!』とか言ったら炎上必須ですが『まぁ、こういう生き方もあるのだよ。』と頭の片隅に入れておくのもいいかもしれません。今もそのように生きている人々が少なからずいるわけだし。
終わりに
橋の名は通潤橋と名づけられ、今もなほ深い谷間に虹のやうな姿を横たへて、一村の生命をささへる柱となつてゐます。
初等科修身 三【六 通潤橋】より
1943年(昭和18)1月21日に発行された初等科の教科書です。
太平洋戦争真っただ中の教科書なので名前を聞いただけで嫌がる方もいるかもしれませんが、通潤橋に関して書かれた部分の最後の〆がとても美しかったので引用しました。
おしまい!