北九州市

小倉城へ!デートに最適な観光地ってこういうところをいうんだろうな【福岡の旅】

戦国時代には毛利氏と大友氏が小倉周辺で激しい戦闘を繰り広げています。少なくともその頃には小倉城があったようです。豊臣秀吉による九州征伐の後は毛利勝信が小倉城に入城しています。関ヶ原の戦いで毛利勝信は西軍に味方したため小倉城は東軍(?)の黒田官兵衛に囲まれ降伏、落城しています。毛利勝信は改易されています。
日南市

飫肥城と伊東氏の歴史について。当地を島津氏と80年以上もの間、奪い合った結末は?【宮崎の旅】

飫肥城は宮崎県日南市中央部に位置する飫肥地区にあった城です。築城年や築城者は不明ですが、南北朝時代には存在していたのではないかと考えられています。戦国時代に入ると伊東氏と島津氏が飫肥城を巡り争っています。日向国から追い出された伊東氏は、路頭に迷いながらも最後は飫肥の地を取り戻し、明治維新に至るまで飫肥藩主を務めました。
北九州市

源平合戦から江戸時代に廃城になるまでの門司城の歴史について【福岡の旅】

門司は『もじ』と読みます。門司は九州と本州を結ぶ最短の位置にあることから古来より人の往来があり関所が置かれました。この関所が門司関と呼ばれ、そのまま地名になりました。門司城跡の案内板に『平安時代後期に長門国目代の紀井通資が平知盛の指示を受け城を築いたと云われている。』といったことが書かれていました。
国東市

豊後大友氏の一族、田原氏の居城だった国東半島の安岐城へゆく【大分の旅】

築城者とされる田原氏は豊後大友氏初代・能直の庶子である泰広を祖としています。能直は源頼朝の部下ですので平安時代後期から鎌倉時代の人物です。田原氏は能直の子供から繋がっている家系なので大友三家の一つに数えられています。豊後国図田帳という文書の田原郷の項目に泰広の名前があるので地名から苗字を取ったことがわかります。
古賀市

古河公方の歴史について。殆ど遺構が残っていない古河城へ行く【茨城の旅】

室町時代後期に第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から追い出され古河に本拠を移しています。それから古河公方と呼ばれるようになりました。最初は城の南に館を構えそこを拠点とし、後に古河城へ移ったそうです。 この背景には享徳の乱(1455年~1483年)というややこしい合戦があります。
日南市

九州の小京都!歴史ある飫肥の城下町を散歩してきました【宮崎の旅】

飫肥の城下町には見学有料の施設が7軒あります。共通券(豫章館、小村記念館、松尾の丸、飫肥城歴史資料館、旧高橋源次郎家、旧山本猪平家、商家資料館。じっくり飫肥を観光するなら共通券を購入すべきです。 私は飫肥城の駐車場を利用したので近くにあった豫章館で券を購入しました。
福知山市

丹波国・福知山城へ!明智光秀の城というイメージがあったけど。たった3年で…。【京都の旅】

福知山城の前身は丹波の塩見頼勝が築いた横山城だといわれています。織田信長から丹波攻略の命を受けた明智光秀は1575年と1579年に丹波攻めを行う。第一次丹波攻めは敵将・赤井直正の活躍により大敗。しかし1578年に赤井直正が病死すると明智軍は敵の黒川城の支城を次々に落としていき丹波を平定させます。
篠山市

池田輝政や築城名人の藤堂高虎によって築かれた篠山城!江戸時代に築城された理由は何?【兵庫の旅】

篠山城は1609年(慶長14)に山陰道の要所であった篠山盆地の丘陵・笹山に築かれました。築城の理由は大阪城を拠点とする豊臣氏の包囲、西国の諸大名への牽制だったとされています。普請総奉行は池田輝政、縄張は築城名人の藤堂高虎が担当。加藤嘉明や福島正則などの外様大名に築城工事を任せることによって外樣の経済力低下を狙いました。
宇都宮市

富士山が見える!飛山城と築城者の芳賀氏の歴史について【栃木の旅】

飛山城跡は飛山城史跡公園として整備されています。園内には掘立柱建物や竪穴建物、堀や土塁を復元したものがあり当時の雰囲気を少しだけ再現しています。西側には鬼怒川が流れ、空気が澄んだ冬場の早朝や夕方に富士山が見えます。烽家は『のろしをあげる施設』ということ。飛山の名の由来は烽家から来ているのではないかと云われています。
杵築市

杵築城跡の資料館にある軍人の遺品を見て俄然杵築に興味が湧いた【大分の旅】

1394年、杵築城は豊後大友氏の一族である木付氏によって築城されました。東に海、南北は川に挟まれた天然の要害として知られています。木付氏は大友氏に殉じた忠義の一族だったようです。意外と大友氏って忠義の将が多いです。だからこそ全盛期にあれだけの領地を抱えることが出来たのでしょう。最後は真っ逆様に落ちていきましたけど…。
佐賀市

佐賀城の風景を眺めて。幕末の名君・鍋島直正公についてざっくり紹介します【佐賀の旅】

室町時代後期。肥前国佐賀郡は少弐氏から下剋上を果たした龍造寺氏によって支配されていました。当主の龍造寺隆信が沖田畷の戦い(1584年)で戦死すると、重臣の鍋島直茂が中心となって龍造寺家を支えます。江戸時代に入ると龍造寺氏が居城にしていた村中城を鍋島直茂・勝茂父子が改修、拡大します。これが佐賀城の始まりです。
大分市

ずっと大友宗麟の居城だと思っていた府内城へ!

築城年は1597年。初めは府内城ではなく地名から荷揚城と呼ばれていました。築城者は豊臣家臣の福原直高という人物です。福原直高は播磨赤松氏の一族で出で、石田三成の妹を娶りました。 朝鮮出兵では軍監として渡航します。このとき石田三成たちと武闘派の武将が軍令違反した!と秀吉にチクったため武闘派と対立してしまいます。
長浜市

秀吉の居城・長浜城へ!ここから秀吉は更なる躍進を遂げることになるのだけれど…。それはまた別のお話で

1573年(天正元年)に朝倉、浅井氏との戦いで戦功をあげた織田家臣の木下藤吉郎秀吉は滅亡した浅井氏の故地を拝領しました。秀吉は浅井氏本城だった小谷城にしばらく住んでいましたが今浜(現在の長浜)が交通の要衝と判断し築城を開始します。そして城が完成し地名を長浜と改めここを居城とし更なる躍進遂げることになります。
大洲市

比志、地蔵ヶ岳、大津。大洲城の3つの別称の由来とその歴史について調べてみた!

愛媛県大洲市、肱川のほとりに聳える大洲城跡。その歴史は古く、鎌倉時代の末期に伊予国の守護として遣わされた宇都宮氏が大洲を拠点とし城を築いたことから始まります。天守は明治時代中頃に取り壊されてしまいましたが、江戸時代後期に建て直された台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓、三の丸南隅櫓は現存し国の重要文化財に指定されています。
白河市

白河小峰城に登城!お城の歴史と人柱伝説・おとめ桜について【福島の旅】

福島県白河市の白河小峰城に訪問しました。当日は寒波の影響で大雪が降っていたため辿り着くまでに大変苦労した記憶が残っています。雪道運転にそれほど抵抗はないのですが、やはり少しの油断が大事故に繋がりますので物凄く神経を使います。今回は冬の白河小峰城の景色とその歴史、最後に人柱伝説『おとめ桜』について見ていきます。