古河公方の歴史について。殆ど遺構が残っていない古河城へ行く【茨城の旅】

古河城

永享記という軍記に古河城の由来が書かれています。

此古河の城は、昔日源三位の御弓の師と聞こえし下河邊荘司行平より、代々住みける舊館なり。城の南東方に龍崎といふ所に、源三位頼政の廟あり。其由来を尋ぬるに、三位入道平等院に於て自害の後、郎等下河邊荘司行吉という人、此地の住人なりけるが、頼政の首を討ちて、衰老の頸を獄門に曝さん事を無念なりと宜ひしとて、遺言を違えず、山伏の姿に作し、彼首を桶に入れ、笈裡に納め、諸國修業して後、本國に歸る。此處に笈を置きけるに、此笈少しも動かず、大石の如し。是は不思議なり。此地に住ませ給ふべき驗にやとて、此館の鎭守に祀り祝ひ奉り、一社神を崇め、金銀幣帛の祭奠、蘋蘩蕰藻の禮物、善盡し美盡せり。されば靈神感應、日々に新たにして、當城凶事あらんとては、此社鳴動す。其驗揚焉なり。此社前に菩提樹生ひたり。奇特なりける事多かりき。

永享記 古河城の由来より

この古河城は昔、源頼政の弓の先生とだった下河辺荘司行平より、代々が住んでいた旧館です。城の南東方面の龍崎というところに源頼政のお墓があります。
その由来を尋ねると、源頼政が平等院で自害したあと、この地(古河)の住人であった下河辺荘司行吉という人が、『この年寄りの首を晒されるのは無念じゃ…。』という頼政の遺言を聞き、山伏に扮して、頼政の首を桶に入れ箱に納め、諸国を修行したあと本国に帰りました。ここに首の入った箱を置くと大きな石のように動かなくなりました。
不思議なことです。この地に住みたいということなのだと、古河の館の守護として祀り、神社で崇め、豪華な贈り物をして尽くしました。
そうするとご利益があり、当城に不幸なことがあるときは知らせてくれます。その効き目は凄いものでした。
この神社の前に菩提樹が生えました。良いことが多く起きたのです。
いちのまる
いちのまる

ちょっと長いですけどキリのいい所まで引用しました。時代は平安時代後期です。この前文には永享の乱の敗北で自害した鎌倉公方・足利持氏のことと、その息子の成氏が古河へ戻って来たことなどが記されています。成氏に関しては後述します。

以上が古河城の由来についてです。

今回は行けませんでしたが、古河城の近くには源頼政を祀る頼政神社、また龍ヶ崎市にも頼政神社があります。

源頼政は後白河天皇の皇子・以仁王と組んで打倒平家を掲げた人物です。以仁王と頼政の挙兵は失敗に終わりますが、これが源頼朝や木曽義仲の挙兵に繋がっていきます。
平家物語では渡辺長七唱という人物が頼政の首を刎ね石に括り付けて宇治川に沈めたとあります。また同書の巻第四・鵼で妖怪退治をする頼政が描かれています。

 

古河城の場所

古河城

古河城本丸跡は下のグーグルマップの位置にあります。駐車場はありません。

本丸跡には簡単な説明板と木碑しかないので、古河城出城跡に建てられた古河歴史博物館に行った方がいいかもしれません。

訪問したとき歴史博物館は休館日だったので館内の様子はわかりません。こちらには駐車場があります。

 

享徳の乱と古河公方

古河城

室町時代後期に第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から追い出され古河に本拠を移しています。それから古河公方と呼ばれるようになりました。最初は城の南に館を構えそこを拠点とし、後に古河城へ移ったそうです。

この背景には享徳の乱(1455年~1483年)というややこしい合戦があります。

享徳の乱は室町幕府と鎌倉公方と関東管領とその他関東の有力武将たちが28年に亘って繰り広げた戦いです。

鎌倉公方は鎌倉府の長官のこと。室町幕府を開いた足利尊氏の四男・基氏の子孫が代々継ぎました。その役目は将軍が鎌倉を留守の間取り仕切るというもの。関東管領は鎌倉公方の補佐役です。これは上杉氏が世襲しました。

『室町幕府、関東管領vs鎌倉公方、その他』←もう滅茶苦茶ですね。

最終的には室町幕府と足利成氏の和睦で終了しています。

享徳の乱や同時期に起こった応仁の乱(これまたややこしい)が、その後訪れる下剋上の戦国時代へのきっかけになっています。

 

長享の乱と古河公方

古河城

享徳の乱が終わると今度は関東管領の上杉氏内部で争いが始まります。これを長享の乱(1487年~1505年)といいます。

『山内上杉氏の顕定(関東管領)vs扇谷上杉氏の定正、朝良』の戦いです。

古河公方は足利成氏から政氏に代替わりした時期です。足利政氏は初めのうちは扇谷上杉氏の味方をしますが、上杉定正が亡くなると山内上杉氏に味方します。

長享の乱は激しい合戦が行われたのち両家が婚姻同盟を結び終結します。また足利政氏の弟・義綱(顕実)が上杉顕定の養子になっています。

いちのまる
いちのまる

この戦いには太田道灌、北条早雲、今川氏親などの名だたる武将が登場します。今回は古河城についての記事なので詳しくはまとめませんが、彼らに関する史跡に訪れることがあればそのときに紹介したいと思います。

 

永正の乱と古河公方の終焉

古河城

古河公方・足利政氏には高基という長子がいます。政氏と高基は仲が悪くしばしば対立しました。

関東管領の上杉顕定が越後の戦いで死亡すると跡継ぎ問題(上杉顕実vs上杉憲房)が発生します。

政氏は顕実を、高基は憲房を推します。これが古河公方の内紛に発展してしまいます。

この一連の争いを永正の乱(1500年前半)といいます。

結果、政氏と上杉顕実は敗北し古河城を追われ、足利高基が古河城に入り古河公方に就き上杉憲房が関東管領になります。

またこの諍いの最中に高基の弟・義明が独立して小弓公方を立ち上げています。

この頃の関東地方は混沌の内にありました。その中で虎視眈々と構えていたのが戦国時代の関東覇者・後北条氏です。

義明の小弓公方は後北条氏2代目・北条氏綱に滅ぼされています。

古河公方4代目の足利晴氏は後北条氏に寛容でしたが、北条氏康の代になると上杉両家と連合を組み後北条氏の河越城に攻め入ります。

この戦いは日本三大奇襲の一つで『河越夜戦(かわごえよいくさ)』と呼ばれています。圧倒的に兵数で劣っていた北条氏康が足利・上杉連合軍に奇襲を仕掛け見事勝利したことで有名な合戦です。

河越城の戦いの敗北で足利晴氏は命こそ救われましたが古河公方としての権力を失ってしまいます。古河公方を継いだのは晴氏の息子・義氏でした。彼は北条氏康の甥でもあり婿でもありました。

こうして古河公方は後北条氏の傀儡にされてしまうのでありました。また関東管領の上杉憲政は越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の下に身を寄せ、景虎に関東管領職を譲っています。この時点で古河公方や関東管領の役割は終わってしまったといえます。

 

終わりに

古河城

古河公方5代目・義氏が亡くなると娘の氏姫が跡を継ぎます。その子孫は喜連川氏を称し養子を入れながら現在まで続いています。

江戸時代の古河城は徳川将軍の日光社参の宿泊する城とされ重要視されました。

1874年(明治7)、前年に発布された廃城令によって多くの建物が取り壊されます。

1910年(明治43)、渡良瀬川河川改修工事が行われ古河城は完膚なきまでに破却されてしまいます。

いちのまる
いちのまる

上の写真は1870年(明治3)の古河城です。現在の古河城跡はビックリするほど何もありません。古河城および古河公方の歴史についてでした。全部説明し始めるとキリがないのでかなり端折りましたが、古河公方周りの歴史はかなり複雑です。何がややこしいって似たような名前が多すぎます。

おしまい!

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