1573年(天正元年)に朝倉、浅井氏との戦いで戦功をあげた織田家臣の木下藤吉郎秀吉は滅亡した浅井氏の故地を拝領しました。
秀吉は浅井氏本城だった小谷城にしばらく住んでいましたが今浜(現在の長浜)が交通の要衝と判断し築城を開始します。
そして城が完成し地名を長浜と改めここを居城とし更なる躍進遂げることになります。
長浜城へのアクセス
電車ならJR長浜駅を降りてすぐのところにあります。
自動車でしたら北陸自動車道の長浜インターチェンジを右折。
遠目からお城が見えると思いますのでそれを目指せばok.下道なら琵琶湖東沿岸を走っていればいつか着きます。
長浜城について
現在の長浜城は1983年(昭和58年)に寄付などで造られたもので内部は歴史博物館になっています。
正月に訪問したので残念ながら博物館の見学は出来ませんでした。また再訪できたら見学したいと考えています。
長浜城についての情報があまりないので写真メインでサクッと終わらせます。
太閤井戸跡。
かつてはこの辺りも城郭の一部だったのでしょう。よい景色です。
実際の天守跡はここにあったようです。のどかですな。
おかねさん伝説。
人柱はよく美談として語られますがどうなの?こういう伝説があるところは心霊スポットになりやすいですね。
ここは違うと思うけれど。
豊臣秀吉公の像です。
長浜城についての情報があまりないので秀吉について綴ろうかなと思っていましたが無駄に長くなってしまいそうなのでやめました。
1582年、本能寺の変で織田信長が死亡し織田の行く末を決める清須会議が開かれます。
この会議では主に後継者と領地分配が話し合われました。
結果、長浜は柴田勝家が支配することになります。
その後1583年の賤ヶ岳の戦い(秀吉vs勝家)で秀吉が勝利したあとは山内一豊が入城。
1600年、関ヶ原の戦いの6年後に内藤信成が入るが、1615年に内藤氏は転封となりそのまま廃城。
1615年は豊臣氏が滅んだ年です。
徳川政権としては秀吉が築いた長浜城を残しておくわけにはいかなかったのでしょう。
終わりに
彦根城の天秤櫓(上の写真)は井伊年譜によると長浜城大手門を解体したときの資材が使われているとのこと。
試しに井伊年譜を見てみましたが達筆すぎて全然読めません。
ただ『…石垣…櫓門…大津、佐和山、長浜、安土ノ古城?…来…』(…は何が書いてあるかわからない部分)と書いてあったので彦根城は近江国内の城々から資材を集めて築城したんだなと何となく理解できました。
おしまい!