近畿地方

福知山市

丹波国・福知山城へ!明智光秀の城というイメージがあったけど。たった3年で…。【京都の旅】

福知山城の前身は丹波の塩見頼勝が築いた横山城だといわれています。織田信長から丹波攻略の命を受けた明智光秀は1575年と1579年に丹波攻めを行う。第一次丹波攻めは敵将・赤井直正の活躍により大敗。しかし1578年に赤井直正が病死すると明智軍は敵の黒川城の支城を次々に落としていき丹波を平定させます。
篠山市

池田輝政や築城名人の藤堂高虎によって築かれた篠山城!江戸時代に築城された理由は何?【兵庫の旅】

篠山城は1609年(慶長14)に山陰道の要所であった篠山盆地の丘陵・笹山に築かれました。築城の理由は大阪城を拠点とする豊臣氏の包囲、西国の諸大名への牽制だったとされています。普請総奉行は池田輝政、縄張は築城名人の藤堂高虎が担当。加藤嘉明や福島正則などの外様大名に築城工事を任せることによって外樣の経済力低下を狙いました。
長浜市

秀吉の居城・長浜城へ!ここから秀吉は更なる躍進を遂げることになるのだけれど…。それはまた別のお話で

1573年(天正元年)に朝倉、浅井氏との戦いで戦功をあげた織田家臣の木下藤吉郎秀吉は滅亡した浅井氏の故地を拝領しました。秀吉は浅井氏本城だった小谷城にしばらく住んでいましたが今浜(現在の長浜)が交通の要衝と判断し築城を開始します。そして城が完成し地名を長浜と改めここを居城とし更なる躍進遂げることになります。
神戸市

運河に沈められた兵庫城跡へゆく!遺構が眠る新川運河とイオンモール神戸南店をぼんやりと眺めてきた【兵庫の旅】

兵庫城は戦国時代に織田信長家臣の池田恒興によって築城されました。江戸時代に入ると尼崎藩の領になり陣屋が置かれます。尼崎藩は建部氏から始まり戸田氏、青山氏を経由して桜井松平氏の松平忠興の代で明治時代を迎え廃藩になりました。明治維新後、城跡に兵庫県庁が設置されましたが、すぐに別の所に移動されます。
朝来市

竹田城の歴史について!天空の城?日本のマチュピチュってどんなところ?【兵庫の旅】

竹田城は朝来市にあるの古城山山頂に築かれた山城です。古城山が伏せた虎に似た外観をしていることから虎臥城とも呼ばれたりします。江戸時代後期に書された和田上道氏日記では嘉吉年間に安井ノ城が築かれたとあります。安井ノ城は竹田城のことを指します。竹田城の始まりについては口碑が残るのみで不明な点が多いのです。
明石市

明石城へ!宮本武蔵由来の庭園と重文・坤櫓&巽櫓を見に行った【兵庫の旅】

1618年(元和4年)、小笠原忠真が徳川秀忠の指示を受け明石城の築城を開始しました。築城の目的は西国の諸大名を牽制するため。戦国の世が終わったとはいえ、まだまだ油断ならないと考えたのでしょう。苦労して明石城を築いた小笠原忠真ですが、1632年(寛永9年)に北九州の小倉に移封となってしまいます。
姫路市

国宝であり世界遺産でもある白鷺城こと姫路城を観光してきた!【兵庫の旅】

国宝に指定されている天守は5城。総称して国宝5城と呼びます。中でも姫路城は世界遺産にも指定されている数少ない建築物です。奈良県の法隆寺、広島県の厳島神社、栃木県の日光寺社(東照宮)などが国宝と共に世界遺産に認定されています。姫路城をぐるっと観光してきましたので歴史と共に風景を見ていきましょう。
平群町

信貴山城の歴史について!戦国の世を震撼させた梟雄・松永久秀の終焉の地を歩く【奈良の旅】

信貴山城は信貴山の雄嶽を中心として東西550m、南北700mに広がる大規模な中世山城です。郭は120以上もあったとされています。戦国時代を震撼させた戦国三大梟雄の一人に数えられる松永久秀の居城であり、織田信長に追い詰められた久秀が茶器・古天明平蜘蛛を抱いて爆死したという逸話が残る場所でもあります。
三木市

なぜ、竹中半兵衛の墓がここに?どんな理由があるのか調べてみた【兵庫の旅】

三木市に竹中半兵衛の墓があります。美濃国の武将である半兵衛の墓が何故ここにあるのか?半兵衛は美濃国に生まれた戦国武将です。初めは稲葉山城の斎藤氏に従いますが、主君の放蕩ぶりに見切りをつけた半兵衛は稲葉山城を乗っ取っています。しばらく戦い続けた後、城を明け渡し下野しました。
伊丹市

信長もビックリ!?荒木村重の謀反と有岡城の戦いの悲劇について【兵庫の旅】

伊丹城は摂津の国人衆・伊丹氏が南北朝時代に築城したと云われています。戦国時代になると荒木村重が伊丹城を攻め落とし入城。村重は伊丹城を居城と定め、大改修を行った後、有岡城に改名しました。村重は摂津池田氏の家臣、荒木義村の息子として生を受けました。後に織田信長に見出され家臣となりますが…。
芦屋市

私の憧れの人、文豪・谷崎潤一郎の生涯について【兵庫の旅】

谷崎潤一郎は1886年7月24日に東京の日本橋で生まれました。1965年7月30日、腎不全から心不全を併発し、79歳でこの世を去ります。父は生粋の江戸っ子・倉五郎、母は関と言います。谷崎は『顔ばかりではなく、大腿部の辺の肌が素晴らしく白く肌理が細かだつだ』と母について語りました。
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