なんで前橋市が県庁所在地なのか?
群馬出身の私は常々こう思っていました。
高崎市は前橋市と比べて人口が多く、明らかに都会の雰囲気。新幹線通ってるし。
何も知らない人が見たら群馬の中心は高崎市と思うはず。
さて、それでは高崎市ではなく前橋市が県庁所在地である理由を、前橋城跡とこの問題に所縁のある場所と共に一緒に見ていきましょう。
前橋城跡について
かつて前橋城があった場所に群馬県庁は建っています。
少しわかりずらいですが、県庁の片隅に説明板と石碑があります。
前橋城は利根川と広瀬川を外堀代わりとして築城された平城です。
起源は15世紀末といわれ、周辺を支配していた長野氏もしくは長尾氏が箕輪城の支城として建てたと考えられています。
前橋と呼ばれるようになったのは比較的最近でそれまでは厩橋(まやばし)と呼ばれていました。
戦国時代の群馬は武田氏、上杉氏、後北条氏などの強豪大名に囲まれていたため、ひたすら奪い合いの合戦が行われていました。
前橋城も例外ではありません。
1551年、後北条氏が前橋城を攻略。
1560年に上杉氏、1563年には武田氏、後北条氏連合軍に落とされます。
再び上杉氏が奪取しますが、家臣の北条高広(きたじょう)の謀反によって後北条氏の手に渡ります。
上杉、後北条が越相同盟を結ぶと上杉氏の城に。
1579年、武田勝頼によって攻略されましたが、1582年に武田氏が滅亡したため、織田信長の家臣である滝川一益が前橋城に入城しています。
しかし、同年に発生した本能寺の変で織田信長が横死してしまったため、後北条氏が滝川一益を攻撃し前橋城を奪い取ります。
目まぐるしく変わり過ぎてややこしい…。
1590年、豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏が滅亡すると、関東に移封した徳川家康の家臣・平岩親吉が入城しています。
平岩親吉が転封し酒井氏が入城。
その後、酒井氏と入れ替わり越前松平氏の領地となりました。
越前松平氏は利根川の暴流に悩まされ、前橋城を放棄し川越(埼玉県)に移ってしまいます。
江戸時代末期に越前松平氏が前橋に戻り、前橋城の再築に取り掛かるものの、明治維新で情勢が大きく変わってしまう。
最後は廃藩置県によって前橋藩は前橋県となり本丸御殿跡に県庁が置かれました。
楫取素彦と臨江閣
廃藩置県で最初に群馬県庁舎が置かれたのは前橋市ではなく高崎市でした。
しかし、県庁舎は軍事上重要な高崎城内にあったため、軍部に接収されてしまいます。
高崎城以外に見合う建物が無かったので、県庁は一時的に前橋城跡へ移転することなりました。
臨時で前橋に県庁舎が置かれましたが、群馬県そのものが埼玉県(入間県)と合併することになり一時的に庁舎がなくなってしまいます。
これはすぐに解消されて群馬県は復活、そして再び高崎市に県庁が設定されます。
しかしながら、相も変わらず高崎城内は軍部の管轄で入る余地がありません。
城外で業務を行うものの作業効率が上がらず問題が多発していました。
このタイミングで現れたのが、2015年の大河ドラマ『花燃ゆ』の準主役・楫取素彦です。
楫取素彦は山口県に生まれ、第二次群馬県の県令になった人物です。
彼は業務不能な高崎の県庁舎を一時的に前橋に移転させる手続きを行います。
高崎市民には準備が整い次第また県庁舎を高崎へ戻すと説得し、お上の許可を得てこれを実行。
時間が経ち前橋が群馬の中心地となりつつある姿を見て彼は『これ高崎に戻す必要なくない?』と密かにお上に連絡。
なんと、この案が採用されてしまいます。
この対応に高崎市民はブチ切れた!
前橋の県庁舎に押しかけます。大抗議です。そして移転問題は司法の判断に委ねることになりました。
ところが裁判で楫取側が勝利し、高崎市民は引かざるを得ない状況に陥ります。
そして、現在に至ります。
私は桐生市民なので傍観していますが『前橋vs高崎』の戦いは未だ燻っている気がする。気のせいかな…?
さて、あとは臨江閣の様子でも見て終わりましょう!
この大広間で詩人の萩原朔太郎が結婚式を挙げたそうです。
茶室は県指定重要文化財です。
終わりに
日本庭園から眺める県庁舎。
群馬県には高層ビルが殆どありません。
県庁舎が群馬で一番高いビルそうです。
おしまい!