1394年、杵築城は豊後大友氏の一族である木付氏によって築城されました。
東に海、南北は川に挟まれた天然の要害として知られています。
築城した木付氏について詳しいことはわかりませんが、大友氏に殉じた忠義の一族だったようです。
意外と大友氏って忠義の将が多いです。
だからこそ全盛期にあれだけの領地を抱えることが出来たのでしょう。
最後は真っ逆様に落ちていきましたけど…。
木付氏のあとは入れ代わり立ち代わり城主が変わります。
江戸時代に豊後高田藩から能見松平氏が入城し、明治維新になるまで杵築を治めました。
能見松平氏は戊辰戦争で明治新政府の味方に付き、後に華族に列せられます。
杵築城の展示室
模擬天守の中には展示室がありました。
杵築に所縁のある人々についての展示物が公開されていましたので、少しだけ紹介します。
伊藤修と金丸鐡
左が伊藤修。右が金丸鐡(まがね)。
両者とも杵築藩出身の法学者です。
二人は薩埵正邦らと共に法政大学の前身である東京法学校を設立しました。
河合操
杵築市出身の軍人。
最終階級は陸軍大将。
陸軍教導団の一兵卒から身を起こし、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業し、ドイツ駐在武官、陸軍大学校長、陸軍大将、参謀総長などを歴任した。予備役編入後には枢密顧問官の大役を拝命する。
枢密院文書・高等官転免履歴書に
卅八年 一月十三日 第四軍参謀被免第三軍参謀副長
明治38年1月13日に第三軍ということは乃木希典大将の下で奉天会戦を戦ったということかな?
堀悌吉
杵築市出身の軍人。最終階級は海軍中将。
杵築の中学校から海軍兵学校に入っています。32期生で同期に山本五十六がいました。
日露戦争では戦艦三笠に乗船し日本海海戦に参戦しています。
調べてみると、かなり立派で優秀な人物だということがわかりました。
豊田副武
右下の人が豊田副武。杵築市出身の軍人。
最終階級は海軍大将。第29代・第30代連合艦隊司令長官。第19代軍令部総長。
評価が分かれる軍人です。太平洋戦争末期の軍人は中々難しい立場にありますので何とも言えませんが…。
重光葵
重光葵は第二次世界大戦時の外相。
出身は大分県豊後大野市ですが3歳の頃に杵築市に移住しています。
1945年(昭和20年)9月2日、戦艦ミズーリの甲板上にて重光葵は日本政府を代表し降伏の文書に署名しました。
杵築市に史跡として重光家が現存していますので、そちらに訪問したとき詳しく紹介しようかと思います。
終わりに
展示室は歴史(特に近代史)に興味がない人にとって退屈な展示室だと思います。
そんな方は外に出て景色でも眺めていてください。
杵築城から眺める景色は抜群ですから。
なんで杵築市はこんなに軍人を輩出しているのかな?
何か理由があるのかな?
杵築城の展示室を見て俄然杵築に興味を持った私でした。
おしまい!