柄杓山の桐生城跡に行ってきたので、機織りで有名な桐生市の歴史を紹介する【群馬の旅】

私は生まれ故郷だからか、桐生という名前の響きが大好きです。

といってもただ響きが好きなだけで、桐生の歴史や地理的なことは全く知りませんでした。

『故郷を知らずして他を語るのは如何なものか?』とちょっと反省。

というわけで久方振りに帰郷し、桐生の縄張りを守っていた桐生城跡に行ってきました。

それでは桐生城跡の様子と桐生の歴史を見ていきましょう。

 

桐生城跡へのアクセス

日枝神社

桐生城は柄杓山の頂上にあります。

桐生市街地から県道66号線を梅田湖へ向かうとカインズホーム桐生梅田店があるのでまずはそこを目指します。

カインズホーム対面の住宅地に日枝神社がありますので頑張って探してください。かなり狭い道を進むので大きい車だと辛いです。

日枝神社から柄杓山に続く山道を登ると30~40分で城跡に到着します。

碧雲寺方面からも行けるようですが、そのルートはよくわかりません。

鹿や猪、熊に出くわす可能性があるので大きな音が出る装備を忘れずに。

私は城跡に向かう道中、ウリ坊を引き連れた猪に遭遇し愕然としました。

幸い逃げてくれたので助かりましたが、突進されたら最悪死ぬのでヤバいです。

 

桐生城

 

桐生城

 

桐生城

夏場に行ったせいか草が繁茂していて登山道が途切れ途切れになっていました。

361mしかない低山ですが遭難すると大変な目に合うので無理だと思ったら引き返しましょう。

 

桐生城跡の様子

桐生城

本丸付近はこんな感じになっています。石碑が一つあるだけで殺風景です。

さて桐生城についてです。

桐生の語源は「キリ」=開拓地、開墾地と「ウ」=谷が合わさり「キリュウ」になった、桐の木が生い茂っていた、他には霧が多く発生したなど様々な説があります。

桐生城は柄杓山の頂上にあるので柄杓山城とも呼ばれます。

 

桐生城

1350年に桐生氏中興の祖といわれる桐生国綱が築城したといわれていますが、国綱が存在しなかったという説もあり詳細は不明です。

平安時代後期、藤原姓足利氏の家臣に桐生六郎という人物が存在しているため、それ以前から一帯は桐生と呼ばれていたのではないかと推測されています。

六郎は謀反を起こし敵方の源頼朝に主人の首級を持参するが、『代々仕えて来た主人の首を斬るなんて信じられん。』とドン引きされた挙句、処刑されてしまいました。

 

桐生城

戦国時代。

1573年、太田金山の由良氏に攻め込まれた桐生氏は親戚の佐野氏(栃木県)を頼り城を開放します。

由良氏は後北条氏との戦いで敗北し当主の国繁は捕縛され小田原城で人質として過ごすことになります。

1590年、豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏が滅亡すると由良国繁は解放されますが、上野国に戻ることなく茨城県の牛久に移封したため、桐生城はそのまま廃城になってしまいました。

 

桐生城

1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康は桐生に旗絹2410疋を献上するように指示。

それ以降、桐生の織物は幕府御用達の品となり全国に桐生織の名を知らしめることになります。

1841年の年間織物取引高はなんと70万両!(現在の価値として900億円くらいか?)

明治期、大正期には最新機器を取り入れたり、専門の学校を設立するなど絹産業の最先端を貫きます。

しかし、時が移り人絹のブームが到来すると厳しいかな、かつての栄華は衰退の一途を辿るのであります。

 

終わりに

上毛かるたに『桐生は日本の機どころ』とあります。

廃れたといっても天下の桐生織!まだ戦えるはず。

いちのまる
いちのまる

がんばれ桐生!私も頑張る。

おしまい!

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