東かがわ市の引田城の歴史を南海通記を引用しつつ紹介します!【香川の旅】

引田城

引田城は東かがわ市の引田湾(瀬戸内海)に半島のように突き出た、標高82mの独立丘にある平山城です。

山城と書かれる事もありますが、まぁ標高が低いので平山城でいいと思います。立地的に海城としての役割も担っていたと考えられます。

ちなみに『ひきた』ではなく『ひけた』と読みます。

狼煙台跡や郭跡、溜池などの遺構が点在しているようですが、訪問当日はあまり時間が無く城跡を駆け抜けたため、単なる風景しか撮影出来ませんでした。

そんな風景写真と共に引田城の歴史をざっくり紹介致します!

当記事で引用している南海通記は一次史料ではありません。
史実と異なる点があるかもしれませんので、ご了承下さい。

引田城の場所

引田城

自動車でもいけますが、港町の狭い道を通るので運転注意です。

引田城直近の駐車場は『南登城口』か『田の浦キャンプ場登城口』です。私は前者に停めました。確か2台くらい駐車出来たはずです。田の浦キャンプ場の方にはゆったりとした駐車場が用意されています。

駐車場の位置は上記地図をご確認ください。

公共交通機関利用ならJR四国・高徳線の引田駅を下り、そこから徒歩で20~30分程かかります。

 

引田城の歴史

引田城

故に此付近の住民は古來紀伊、阿波に於ける有力の海部なると共に平時にありては有力なる漁業者として海運業者として通商業者として戰時にありては海軍衆として遠近に遊戈する等各時代に於て其海上に於ける活動發展も實に目醒ましきものありき。

國寶並ニ史跡名勝天然記念物調査報告 香川懸史跡名勝天然記念物調査會より

それ故に、この付近の住民は古来紀伊、阿波における有力な海部(漁業を生業として国に仕えた部族のことか?)であると共に、平時には有力な漁業者、海運業者、通商業者として、戦時には海軍衆として遠近に船を動かし敵に備える等、各時代においてその海上における活動発展は実に目醒ましいものがあった。

引田城の築城年や築城者はわかっていません。上記の引用文の通りであれば大昔から物見櫓や狼煙台くらいはあったのかもしれません。

 

引田城

引田城現地案内板によると引田城に関わる初の記述は『南海通記』にあり、その内容は応仁年間(1467年~1469年)に寒川氏が引田を領したというものだといいます。

右國中ノ諸將出陣ノ時、海邊ヲ守ル浦長アリ、先ツ引田、三本松ハ寒川領也。小豆島之ニ屬ス、(以下略)

南海通記 讃州浦嶋下知記より

この部分のことでしょう。

応仁の乱で東軍総大将だった細川勝元から『海の守備を堅めるように!』という下知があった場面です。

 

引田城

もう少し『南海通記』を読み進めて行くと城の名前も出てきます。

引田ノ四宮右近三本松ノ白鳥玄蕃押シ向フト云ヘトモ、寒川氏小身ナレハ船數少クシテ兵勢相及ハス、一戰ニ攻付ラレテ山下ニ入ル、敵方ニモ引田ノ城ニ鐵砲ヲ多ク備ヘタル由、兼テ聞及タル故ニ城下ニ攻メ寄セズ、小鳴戸口ヘ漕返シ潮門山ヲ陳城トシテ此ニ止リ、引田城ト相對ス。

南海通記 讃州引田浦船師記より

引田の四宮右近、三本松の白鳥玄蕃が押し向かうといえども、寒川氏は小勢力なので船の数が少なく軍勢は及ばない、一戦に攻めよられ山の下に入る、敵方にも引田の城に鉄砲が多く備わっている由を兼ねてから聞いていたので城下には攻め寄せず、小鳴戸口へ漕ぎ返して潮門山を陳(陣?)城としてここに留まり、引田城と相対する。

年代は不明ですが、周防国の大内氏に味方した寒川氏が阿波国の三好氏に攻められる場面です。四宮右近という人物が引田城にいたことがわかります。

 

引田城

1570年、阿波国の三好長治が寒川氏の領する大内郡を引き渡すように要求してきます。

寒川氏小身ナレハ力ニ及バスシテ大内郡四鄕ニ引田ノ擧山ノ城、水主ノ虎丸城ヲソテ三好長治ヘ獻シ、其身ハ前山晝寢城ニ入ル也。卽チ三好家ヨリ矢野駿河守ヲシテ引田ノ城ヲ守ラシメ、虎丸ノ城ヲハ安富筑前守預トシテコレヲ守ル、

南海通記 矢野駿河守守讃州引田城記より

寒川氏は小勢力なので力が及ばず、大内郡の4郷に引田の挙山の城、水主(主君の意?)の虎丸城を三好長治に献上し、自分自身は昼寝城に入った。
すぐに三好家から矢野駿河守が引田城に入り守らせ、虎丸城は安富筑前守が預かりこれを守る。

南海通記を読む限り、三好長治が寒川氏の領地を狙った背後には安富氏の暗躍がありそうです。

安富盛定が義父であり、三好長治の重臣でもある篠原長房に『寒川氏の領地が中間にあって通行が自由に出来ない。』と伝え、これを篠原が長治まで届けたことによって寒川氏は領土を削られてしまいます。

 

引田城

元親其北ルヲ逐フテ引田ニ入リ黄昏ニ及ヌレバ湊ノ上ノ山ヘ押上ケ、勝チ鬨ヲトリ行ヒ其夜ハ其所ニ野陣シ、敷皮ノ上ニテ夜ヲ明シ翌早天ニ敵ヲ見レバ、引田ノ古城ニ取上引田ノ町ヲ圍ンデ陣す。

(中略)

夫ヨリ吉良左京進大西上野介兵勢ヲナシテ古城ヘ攻寄ル、敵是ヲ見テ山城ノ兵ヲ下シ舟ニ取乘テ漕出ス

南海通記 土佐元親戰引田浦記より

長宗我部元親は逃げる敵を追って引田に入り夕暮れに及んだので港の上の山へ登り、勝鬨をあげ、その夜はその場所に陣を敷き、敷皮の上で夜を明かし、翌朝に敵を見れば、引田の古城に注目し、引田の町を囲んだ。

(中略)

それより吉良左京進、大西上野介が古城に攻寄る、敵は是を見て山城の兵を下山させ船に乗り込み漕ぎ出した。

これは1583年に起きた引田の戦いについて書かれています。

引田の戦いは土佐国・長宗我部氏の軍勢と羽柴秀吉配下・仙石秀久の争いです。緒戦は仙石勢有利で進みますが、長宗我部勢が盛り返し引田から仙石勢を追い出すことに成功しています。仙石秀久はこの後、淡路島や小豆島の守備を固めたそうです。

 

引田城

本能寺の変で織田信長が横死した後、多くのライバルを倒し盤石な体制を築いた羽柴秀吉は四国征伐(1585年)に臨みます。

敵は引田の戦いで仙石秀久と戦った長宗我部元親です。

直近に四国の殆どを平定し勢いに乗っていた長宗我部氏でしたが、織豊時代と呼ばれるように(豊臣)秀吉は常に時代の中心にいた人物。兵力差は圧倒的で長宗我部氏が勝てる見込みはありません。

やがて長宗我部元親は降伏し、頑張って拡げた領土は取り上げられ、本領の土佐一国だけを安堵されます。

阿波國 蜂須賀彦右衛門尉正勝ニ賜。内一万石赤松次郎則房ニ賜。

讃岐國 仙石權兵衞秀久ニ賜。内二万石十河民部大輔存保ニ賜。

伊豫國 小早川左衛門佐隆景ニ賜。三十五万石内二万三千石安國寺恵瓊ニ賜。三千石德居加增ニ賜。一万四千石久留島加增ニ賜。

土佐國 長曾我部宮内大輔元親ニ賜。

凡四ヶ國也。

南海通記 羽柴内府公四國配分記より

讃岐国に仙石秀久が入っているので引田城は本人若しくは家臣の誰かが入ったのでしょう。

しかし四国平定後に行われた九州平定での失態(戸次川の戦い)で仙石秀久は改易処分となっています。(後に大名として復帰する)

 

引田城

天正十五年生駒雅樂頭正規(ママ)、讃岐國ヲ賜テ當國ニ入部有リ先引田ノ城ニ入給フ其後國ノ中區ナレバ鵜足郡聖通寺山ノ城ニ移リ給フ、正規曰國中在來ル所ノ城々ハ皆亂世ノ要害ニテ、治平ノ時ノ居城ノ地ニ非ズ、平陸ノ地ヲ設テ居住スベシトテ、其地ヲ求ラル、

南海通記 讃州新高松府記より

天正15年(1587年)に生駒親正、讃岐国を賜って当国に入り、まず引田城に入られ、その後国の中央部にある鵜足郡の聖通寺城に移られた。
親正曰く『国中にある城々は全部乱世の要害で、平治の時の居城の地ではない。平地に城を建てて居住するべき。』とその地を求められる。

生駒親正が求めたその地に高松城が築かれます。そして現香川県の県庁所在地・高松市が城下町になります。高松市があった場所は古くからそれなりに発展した地域であったそうですが、香川の中心としてここまで栄えたのは生駒親正のお陰です。

 

終わりに

引田城

1615年、引田城は一国一城令が発布され廃城となりました。

なんの変哲もない小さな丘ですが、歴史を振り返るとこの地がとても重要な土地だったことがわかりました。

上の写真は引田城から引田の町を撮影したものです。

戦国時代、長宗我部元親が引田の町を包囲し攻め立てた時、仙石勢はこうやって燃える町を見下ろしたのでしょう。

今は平和です。

おしまい!

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