高松市の北端海岸に在り、此地昔しは總稱して八輪島と云ひ、城地は篦原の庄と唱へ、海を玉藻の浦と呼びしが、天正十六年國守生駒親正、此地を卜して城を築き、新たに高松城と稱せしより、終に今の地名を用ふるに至りしと云ふ。
史傳編纂所発行 日本之名勝 高松城(讃岐)より
高松城は香川県高松市にある輪郭式の平城です。海に隣接する城なので海城のカテゴリーにも入り、誰が決めたのかはわからないけれど、日本三大水城の一つとしても数えられています。
北之丸の月見櫓・水手御門・渡櫓、旧東之丸艮櫓、旧松平家高松別邸である披雲閣が国の重要文化財に指定されています。
玉藻よし 讃岐の国は 国からか 見れども飽かぬ 神からか ここだ貴き 天地 日月とともに 足り行かむ
万葉集 第二巻(0220)より一部抜粋
現在、高松城跡は玉藻公園として整備され一般公開されています。玉藻の名の由来は万葉集にある柿本人麻呂の長歌です。
讃岐国に訪れた柿本人麻呂が『玉藻よし』とべた褒めするところから始まり、最後は波の荒い海辺で行路死者を発見して憐れむという情景が描かれています。
さて、今回は高松城に行ってきましたので、風景と共にその歴史をご紹介致します!
高松城へのアクセス
高松城はJR四国・高松駅のすぐ近くにあるので電車で行けるなら迷わなくて済みます。
自家用車で遠方から向かうなら高松自動車道の高松中央で下りて、ひたすら【高松駅】の看板に従って進みましょう。そうしたら城の近くに着きます。
高松城の周りにはたくさんの駐車場があります。近くて無料がよければ玉藻公園専用駐車場がおすすめです。
生駒氏が築いた高松城
1587年(天正15年)、豊臣秀吉から讃岐国を与えられた生駒親正は引田城に入城し、その後すぐに宇多津の聖通寺城に移動しています。
引田城、聖通寺城を居城にしてみたものの両城は戦のために築かれた城で、治平の世に住むべき城ではないと、新たな土地を探し始めます。
そして親正は篦原庄(のはらのしょう)に理想の地とし、高松城を築城します。
正規(ママ)此所ヲ見立地形ノ吉凶ヲ占ントテ、相人ヲ召ル、阿部(ママ)晴明が遠裔阿部有政ト云者有リ。
(中略)
有政曰土地ノ名ヲ目出度改メルベキ歟、其謂レハ聖通寺ヨリ野原ヘ出給フ時ハ、其詞凶シ聖リ寺ヨリ通テ野原ニ出ルト讀ナレバ、野原ノ名ヲ改テ目出度唱ノ名ニ被成可然申シ上シカバ、正規(ママ)最トアリテ東ノ方高松ノ名ヲ取テ城ノ名トシ、古高松ハ波ノ寄來ル所ナレバ、寄來村ト名付給う也。
南海通記 讃州新高松府記より
親正、ここを選び地形の吉凶を占おうと、占い師を雇う、安倍晴明が遠い先祖と伝わる安部有政というものがいた。
(中略)
有政は『土地をめでたい名前に改めるべきだろう。その謂れは聖通寺城より野原(篦原)にお出になる時、その詞は不吉、聖り寺より通って野原に出ると読むならば、野原の名を改めてめでたい響きの名になさるべきです。』と言ったので、親正は最もだと東の方にある高松の名を取って城の名とし、古高松は波の寄せ来るところだから、寄来村と名付けられた。
聖通寺が良い名前だから、次に移るところは同等かそれ以上に縁起の良い名前にするべきだということでしょうか。
寄来村が気になったので調べましたが、目ぼしい情報は見つかりませんでした。もう存在しない地名かな?
高松城築城の通説?
1-1.『通説』のストーリー
1)1587年(天正15)、豊臣秀吉の命により、播磨赤穂6万石の領主・生駒親正が讃岐国主として移封となった。親正は、まず引田城に入り、次いで宇多津の聖通寺山城(平山城)に移り、翌1588年(天正16)に香東郡野原の地に高松城と城下を築いた(『南海通記』)。引田城の後、聖通寺山城・亀山(後の丸亀城)・由良山(現在の高松市由良町)と城の候補地を考えたが、結局高松築城に至ったとする説(『生駒記』など)もある。
2)親正は1589年(天正17)、藤堂高虎の仲介で黒田孝高に高松城の縄張りについて見分してもらい、『究竟ノ城地』すなわち最もふさわしい場所だとの意見をもらった(『南海通記』)。このほかに、細川忠興が縄張りを行ったとの説(『生駒記』など)もある。
3) 高松城は、1590年(天正18)に完成したとする説があり、様々な書物やインターネット情報(ウィキペディアなど)にもそのような記述が見られる。
佐藤竜馬 著 【研究ノート 高松城はいつ造られたか】『通説』への疑問より
上記は高松城の築城についての通説です。
著者は南海通記の矛盾などを指摘しつつ、発掘調査で判明したことと照らし合わせ、仮説を立て真実に近づこうと試みます。
短い文章でわかりやすく説明されています。気になる方はネット上に情報が公開されているうちに読むことをおすすめします。
水戸黄門の兄・松平頼重が城主に
生駒氏は四代目藩主・高俊の代にお家騒動が発生し改易処分になっています。1640年のことです。
空席になった讃岐国は近隣の大名らによって一時的に統治され、その後二つの藩に分けられました。
一 寛永十八年山崎甲斐守西讃岐多度、三野、豊田三郡五万石ヲ賜テ、圓龜山ノ城ニ居住ス。
一 寛永十九年五月東照神君ノ御孫松平右京太夫賴重公東讃岐十郡十二万石ヲ賜テ高松ノ城ニ入給フ
南海通記 讃州新高松府記より
1641年に西讃岐に山崎家治が入封、丸亀城を居城とします。
1642年、徳川家康の孫にあたる松平頼重が東讃岐を賜り、高松城に入ります。頼重は水戸黄門で知られる水戸藩二代目藩主・徳川光圀の兄にあたる人物です。
少し話は脱線しますが、兄である頼重が何故水戸藩を継げなかったのか?
頼重は父・頼房の命令で堕胎されるはずだったのです。
堕胎の理由は『まだ子供を授かっていない兄貴がいるのに自分が授かるわけにはいかない。』からです。しかし家臣が頼重を秘密裏に匿い育てました。
結果、松平頼重は一国の主となり、それなりに優遇された人生を送ることが出来たようです。
徳川光圀は実子を頼重の養子に送り高松藩を継がせます。そして光圀は頼重の子供を養子に入れ水戸藩を継がせるのです。
藩主血筋の交換です。
兄が継ぐべきだったのに自分が継いでしまったという負い目があったのでしょうか?
讃岐三白について
爾来、高松藩は明治期の版籍奉還までの凡そ230年間、松平氏が治めることになります。
香川には『讃岐三白』という言葉があります。三白は綿・塩・砂糖を指します。
綿は生駒氏時代から生産奨励されていました。
塩と砂糖は高松松平氏五代目・頼恭が開発研究を推奨し、後に花が開いたと云います。砂糖は発展し、高級砂糖の和三盆は香川の名産品となり現在まで愛され続けています。
今なら三白の中に間違いなくうどんが入りますね。
終わりに
幕末期、高松藩は親藩・御連枝であったため、やや苦しい立場に置かれました。
鳥羽・伏見の戦いでは江戸幕府を味方し新政府勢の薩摩・長州軍と対立、朝敵になってしまいます。
土佐国から官軍・乾退助(後の板垣退助)が丸亀、多度津を経由して高松城に迫ると、当時の当主・松平頼聰は『これは叶わない。』と恭順の意を示し降伏します。
こうして高松城は無血開城し新政府に接収されました。
明治期に発布された廃城令では存城処分を受けていますが、陸軍管轄下に置かれ1884年(明治17年)に天守が解体、また1945年(昭和20年)、先の大戦で高松市は空襲を受け桜御門が焼失しています。
冒頭にも述べた通り北之丸の月見櫓・水手御門・渡櫓、旧東之丸艮櫓は現在まで残り国の重要文化財に指定されました。
おしまい!