前橋が生んだ偉人!日本近代詩の父・萩原朔太郎を巡る【群馬の旅】

萩原朔太郎は群馬県前橋市千代田町の生まれで明治から昭和を生きた詩人で、代表作に『月に吠える』『青猫』『氷島』『猫町(小説)』などがあります。

日本近代詩の父と呼ばれ口語自由詩を確立させました。

口語自由詩は日常で使われる話し言葉を韻や文字数に拘らず自由に書いた詩のことをいいます。

それでは前橋市にある萩原朔太郎ゆかりの地を見てみましょう!

 

萩原朔太郎生家跡

萩原朔太郎

萩原朔太郎は1886年(明治19)に萩原医院院長・萩原密蔵の長男として誕生しました。

建物は1968年(昭和43)までここに存在していましたが老朽化により補修されて別の場所に移動されました。

またこの萩原朔太郎生家跡の石碑は旧萩原宅の門柱を再利用したものです。

この写真の場所は『群馬県前橋市千代田町2-1-1』。

シティータワーマンションの側面に隠れるようにあるので意外と見つけにくかったです。

 

萩原朔太郎記念館

萩原朔太郎

敷島公園のばら園内に萩原朔太郎の生家が移転されています。

ここでは書斎、離れ座敷、土蔵を見学できます。

平成28年9月26日から群馬県前橋市城東町1丁目2−7付近へ移築するため一時閉館になりました。平成29年3月から再開予定だそうです。

移転が完了して今は↓の位置にあります。

 

萩原朔太郎

奥の土蔵が展示室になっていて自由に入れます。

自分で入口を開けて電気をつけてスリッパ履いて見学する感じです。

 

萩原朔太郎

土蔵内部はこんな感じです。

萩原朔太郎は集団行動になじめず学生時代は基本独りで行動していたようです。

頭はかなり良かったみたいですけれど身体的にも精神的にも病弱で入学、退学を繰り返し周囲を困らせていました。その一方詩作や音楽には精を出し才能を開花させていきます。

1913年(大正2)北原白秋の雑誌に詩を発表したことから詩人の道へ。

その頃に室生犀星と出会い人付き合いが苦手な朔太郎に友が出来始めます。また得意のマンドリンで演奏会を開いたりもしています。しかし精神的な問題は解決せずこの頃から形而上学的な問題に頭を悩ませ始めます。

 

終わりに

1925年(大正14)に妻と娘2人を引き連れて上京。芥川龍之介や室生犀星と交流し三好達治などが書生として朔太郎を慕うようになりました。

しかし1929年(昭和4)性格の不一致で妻と離縁。娘2人を引き連れて前橋へ戻ります。この離縁で生活はどんどん荒れていきました。朔太郎は結婚に向いていない人柄だったのでしょう。

その後また上京し世田谷区に住み1934年(昭和9)明治大学で詩の講義をしたりと積極的な活動を行いその名を轟かせます。

そして1942年(昭和17)55歳のとき急性肺炎に罹り世田谷で亡くなります。

おしまい!

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