過疎化まっしぐらの足尾町…。銅山と鉱毒事件の歴史について【栃木の旅】

足尾 中才

かつては銅山の町として栄え鉱毒事件で有名になった日光市足尾町。

1916年(大正5年)の最も栄えていた時期の人口数は38428人。そして現在(2020年4月)人口はなんと1772人。

若者は早々に都市部に出てしまい、残っているのは高齢者ばかりの過疎地です。

父の出身地でよく訪れていただけに今後どうなってしまうのか気になるところです。

それでは足尾の歴史を見てみましょう。

 

足尾の歴史

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足尾銅山は1610年に発見されたといわれています。

銅山で採取された銅は江戸城、日光東照宮などの建築に使われたり、海外へ輸出されていました。また寛永通宝(お金)にも使われ、足尾の銅で作られたものは足字銭といわれ、裏側に「足」の字が刻まれていました。

 

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明治時代になると新政府の管轄に。その後、民営化され経営者は優秀な技術者を呼び寄せ、足尾を日本一の銅産出まで成長させます。

当時の足尾銅山は日本全国の銅産出量40%まで達していたそうです。しかしこの頃から渡良瀬川の魚が大量死するなど公害の予兆が出てきます。

さらに燃料のため足尾の木々を伐採、排煙による酸性雨、排水(鉱毒水)による水質汚染。そして大規模な山火事によって樹木がなくなり山の保水力低下、土壌崩落で川底上昇。この結果、大雨が降るたびに渡良瀬川が氾濫するようになってしまいました。

 

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明治20年に開削された小滝路のためにかけられた橋。唯一残された鋼製の橋です。

渡良瀬川が氾濫するようになると下流の田畑に甚大な被害が出るようになりました。普通の川水なら田畑が流されるだけの被害で済みますが、鉱毒水に汚染された水は田畑を侵し植物を枯らせてしまいます。

このような惨状を目の当たり政治家・田中正造が動き始めます。

銅山側も排煙の脱硫装置、排水濾過、沈殿池、堆積物処理場などを造って対策しますが当時の技術ではうまく作用せず一時しのぎにしかなりませんでした。

この公害に農民たちが怒り東京に請願(押出し)しようとしますが道中警官と衝突して流血事件(川俣事件)が起きてしまいます。その後も押出し運動は起こりましたが決定的に政府を動かすまで至りませんでした。

 

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1901年に田中正造は足尾鉱毒に対してなかなか動かない政府に対して命がけで明治天皇に直訴を試みます。直訴自体は失敗に終わりますが、この行動により世間に足尾銅山の公害を知らしめることになります。

さすがに焦った政府は洪水を防ぐために貯水池や砂防ダムを造ります。

しかしながら公害対策はしっかり行われず時が過ぎていきます。そして銅が採掘できなくなった足尾銅山は1973年に閉山します。

1980年代に精錬作業も終わり公害の源泉こそ無くなりましたが、未だ公害は根絶できずに残存しています。いつになったら根絶できるのでしょうか…?

 

終わりに

人口減少や公害の話ばかりで滅入ってしまいそうですが、足尾町はとても良いところです。

わたらせ渓谷鉄道のトロッコ列車に乗って秋の紅葉を楽しむ。通洞坑や銅山跡で銅山の歴史を勉強する。渡良瀬川の支流奥に入って釣りに興じる。日光も近いので是非寄ってみてください!(※足尾も日光だけれど。)

92歳で亡くなった足尾の祖父との会話で印象に残っている昔話を幾つか残して終わろうと思います。

・足尾銅山では多くの日本人と外国人(中国人や韓国人)が落盤事故で死んでいった。落盤事故のサイレンが頻繁に鳴っていた。

・全盛期の足尾は何処を見ても人がいた。

・大東亜戦争(太平洋戦争)で横須賀に行って大砲撃ったけど、一発も当たらなくて笑えた。

・戦争に負けるって誰しもわかっていたが、口にする人はいなかった。

おしまい!

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