下仁田百庚申めぐりのついでに庚申信仰について調べてみた。【群馬の旅】

日本各地の山奥や田舎の道端で見かける庚申塔

最初は読み方も意味も知らずただただ通り過ぎていましたが、あるとき気になって調べてみるとこれがなかなかおもしろい。

日本特有の民衆宗教や風習がおもしろく時間を忘れて勉強していました。

今回は庚申について理解したことを自分なりに説明できればと思い記事にしてみました。

 

庚申信仰について

庚申は干支(えと)の一部です。

その干支は十干(じっかん)と十二支(ね、うし、とら…。と続くあれ)を組み合わせた60の周期からなる数量や順序を表す語。

十干は甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸の10の周期。
十二支は子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥の12の周期。

例えば甲子園球場はこの干支から名付けられています。十干の「甲」と十二支の「子」は双方の始まりとなります。甲子園球場がたまたま干支の始まりの年に完成されたことから「こりゃ、おめでたい」と命名されました。

また還暦(60歳)のお祝いも干支が一巡して最初に戻ることが由来です。お祝いの席で赤いちゃんちゃんこを着る理由は生まれた時に還るという意味なのです。ちなみに赤色は魔除けのため生まれた直後の赤ちゃんに赤い産着を着せていた風習からきています。

干支は60日に一回、60月に一回、60年に一回訪れるわけですが57番目の庚申はあまりよくない日(年)といわれてきました。

 

なぜ庚申は悪い日といわれるのか?

庚申がよくない年と謂われる所以は、中国の道教思想です。

道教では人間の体内に三尸(さんし)と呼ばれる虫がいるとされています。そして三尸は宿主が死ぬと解放され自由になれることから宿主の命を虎視眈々と狙います。様々な方法で宿主を痛めつけます。
また60日に一度の庚申がやってくると三尸は寝ている宿主から抜け出し天帝(最上の神様)に宿主の罪を告げ口し、罪の対価として天帝はその人間から寿命を奪います。

そんなわけで三尸に密告されないよう庚申に関わる日は寝てはいけないという風習が出来たのです。

 

実際庚申の日は何をしたのか?庚申待ちについて。

庚申の日は寝てはいけない以外にも女人禁制、女性と交わってはいけないという禁忌がありました。その理由は庚申様が月の障りや出産が嫌いということから。この日に結ばれて出来た子供は盗賊になるなんて脅しみたいな話もあります。

最初は寿命を取られないよう神仏を祀りながら真面目に徹夜していたようです。ところがある時から歌や楽器を演奏して退屈を紛らわすようになり、終いには酒宴を設けてお祭り騒ぎしてしまうありさま。この行事を庚申待ちと呼ぶようになりました。

 

日本人の民間信仰と庚申信仰

中国道教思想(庚申信仰)は奈良時代(もっと前かもしれない)に伝播したのですが庚申行事が行われるようになったのは平安時代の貴族の間であるといわれています。鎌倉、室町時代になると上流武士の間でも行われるようになり、江戸時代になって一般庶民(特に農民)に広まっていきました。

庚申様を祀りましたという証である庚申塔を建て始めたのも比較的最近で江戸時代以降といわれます。こうして民間の信仰の対象となったわけですが、日本人独特の宗教観が庚申信仰に仏教、神道の要素入れて複雑にしていきました。

 

道教?仏教?神道?どれなのさ?

庚申信仰の本尊は青面金剛明王、もしくは帝釈天です。

青面金剛明王は道教由来なのですがいつのまにか日本仏教の信仰対象となりました。帝釈天はもともとはヒンズー教の神様のようですが、仏教では守護神の扱いになっています。

神道の猿田彦神(さるたひこのかみ)も関係があります。庚(さる)という言葉から繋がったようです。  日本人特有の宗教観は今も昔も変わらずですね。道教から始まった庚申信仰はいつの間にか色々な宗教が入り混じった民衆宗教に変貌していったのです。

また、どういうわけか祈願の対象にもなったらしく

日月清明、風雨順時、五穀豊穣、村内安全

という農耕従事者向けの祈願からはじまり、

二世安楽、天下泰平、商売繁盛、悪疫祓除

などと幸せを願うものに変わっていきました。

こんな感じで庚申信仰については終わりにさせていただきます。

 

下仁田の百庚申

百庚申(ひゃっこうしん)とは庚申塔が一ヶ所に集まっている場所のことです。百基なくても百庚申と呼んでOKみたいです。

今回は群馬県甘楽郡下仁田町にある伊勢山の百庚申清水沢の百庚申虻田の百庚申を探索してきましたので紹介します。

どうぞ最後までお付き合いください。

 

伊勢山の百庚申

下仁田百庚申

 

下仁田百庚申

 

下仁田百庚申

住所は群馬県甘楽郡下仁田町下仁田949の辺りです。

富岡方面から西上州やまびこ街道を走らせて下仁田の交差点を右に入ってすぐ左側に見えます。場所はこのへん↓

この伊勢山の百庚申の殆どは紀年銘(作った年号を記す文)の風化、損傷によりいつ作られたかわかっていません。

紀年銘を読める石碑には古いもので元禄7年(1694年)と記述されています。長い時間をかけてこの周辺の人々が徐々に建立されていったものと推測されています。

当時、有名だった書家の高橋 道斎(たかはしどうさい)、東江 源鱗(とうこうげんりん)などの筆によるものがあります。また写真にはないですが「庚申始末記」という庚申信仰の由来が刻まれた石碑が存在します。

高橋 道斎・・・1718年下仁田生まれ。書道家、俳人、陽明学者。
東江 源鱗・・・1732年江戸生まれ。書道家として有名。沢田東江とも。

 

清水沢の百庚申

下仁田百庚申

 

下仁田百庚申

 

下仁田百庚申

 

下仁田百庚申

群馬県甘楽郡下仁田町西野牧14718にある清水沢の百庚申。

県道43号線沿いにあります。看板があるのでわかりやすいはず。段々の丘に整然と並べられた庚申塔。場所はこのへん↓

庚申をはじめ青面金剛明王、梵字(如来や菩薩を梵字で表す。上の場合ウーンと読むみたいです)、十九夜塔(如意輪観音のことらしい)、他にも多数の石碑があります。

上段にある(上写真の青面金剛明王碑に少し見える)小堂には「建治2年6月日」と書かれた板碑があります。建治2年は鎌倉時代で1277年、しっかりと歴史を感じさせられます。

 

虻田の百庚申

下仁田百庚申

 

下仁田百庚申

ここがなかなか見つからなかった・・・。1時間くらい辺りをうろうろしていました。

上毛三山パノラマ街道沿い群馬県甘楽郡下仁田町中小坂乙1871に入口があります。民家の間にある狭い通路を通って山へ登ります。手作り看板が目印です。かなりわかり辛いですけど。私自身は付近いらしたご年配の男性に場所を聞いてやっとこさたどり着いた感じです。

山の斜面に石垣を築いて庚申塔を建立。1853年に発願着工。その後、明治、大正、昭和と庚申塔が足されていき現在108体あります。市河 米庵(いちかわべいあん)、桜井 阿兮(さくらいあけい)といった有名書家筆のものもあるそうです。

市河 米庵・・・1779年に江戸で生まれた書道の達人。隷書と楷書が得意。
桜井 阿兮・・・不明。

 

終わりに

午前中で終わらせる予定だった百庚申巡りですが、お日様が沈みそうになるまで終わりませんでした…。

めっちゃ疲れたけど、最後の虻田百庚申を見つけた時には凄まじく感動しました。

有名な史跡めぐりも楽しいですがマニアックな史跡もたまにはいいですね!

高崎市にも百庚申があるので興味のある方はどうぞ↓

おしまい!

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