府内城と言えば豊後国の大名・大友宗麟の居城ですね!
とずっと勘違いしておりました。
大友氏が鎌倉時代から豊後国を統治していたことに間違いはありません。しかし政務を取り仕切っていた館は府内城跡から南南東およそ1.3kmの場所にありました。
では、府内城はいつ誰が築城したのか?
その辺りを府内城跡の様子と一緒に見ていきましょう。
府内城跡へのアクセス
国道10号線を中春日で曲がり、少し進むと左手に見えてきます。
私は近くの有料駐車場に停めましたが、他にも停められる場所があるかもしれません。
電車なら大分駅の府内中央口から出て中央通りを進みます。昭和通りの交差点を右折したら間もなく到着です。
府内城跡について
府内城跡の表口、大手門です。
築城年は1597年(慶長2年)。初めは府内城ではなく地名から荷揚城と呼ばれていました。
築城者は豊臣家臣の福原直高という人物です。
福原直高は播磨赤松氏の一族で出で、石田三成の妹を娶りました。
朝鮮出兵(慶長の役)では軍監として渡航します。このとき石田三成たちと『武闘派(加藤清正とか)の武将が軍令違反した!』と秀吉にチクったため武闘派と対立してしまいます。
徳川家康直高を召して責めて曰、今四海、太平に歸せんとするの時に方り、舊壘を壊ち新城を築き、領民を虐使する條奇怪なり。
豊国小志 第十二章 府内城主略伝より
秀吉の死後、石田三成を失脚させられると福原直高も徳川家康に『平和になったのに、古い塁を壊して新しい城を築き、領民を酷使するのは理解できない。』と咎められ府内領を没収されてしまいます。
福原直高失脚後に入城したのは早川長政です。
早川長政は豊後大友氏が失脚した後に大分郡内に赴任し大名として取り立てられた人物です。彼は新たな城は築かず、大友氏館を改修し居城にしました。
しかし、朝鮮出兵(慶長の役)で落ち度があったとして領地を没収され、速見郡木付に移動させられています。
そういわけで、めでたく府内に返り咲いた早川長政でしたが来て早々、1600年の関ヶ原の戦いで西軍に組したため改易になってしまいます。
1601年(慶長6年)、竹中重利が府内城に入城します。
重利は豊臣秀吉の参謀として活躍した竹中半兵衛の従兄弟、または甥にあたる人物です。
七年三月を以て大に土工を起し、城壘を增築し、塹濠を鑿ち、更に天主樓を建て、城堞門樓大に美觀を極む。當時天主樓の瓦は、大坂伏見より瓦匠を召して、之を造らしめ、其木材は之を土佐に求め、石垣の築造は、肥後候加藤清正に請ひ、部下の石工を借りて、工事に從はしめしと云う。
豊国小志 第十二章 府内城主略伝より
当時、大坂、伏見から瓦職人を雇って、これを造らせ、その木材は土佐から取り寄せ、石垣の築造は、肥後国主の加藤清正に願い、部下の石工を借りて、工事に従わせたと云う。
竹中重利は府内城を大改修し、大分の城下町の基礎を築いたとされています。
竹中重利の跡を継いだ重義は長崎奉行に命じられます。
どうやら重義は中々の悪代官だったようで、鎖国政策が敷かれると密貿易などの不正が発覚し切腹を命じられます。
これにより父・重利が築いた府内藩竹中氏は2代で改易となってしまいました。
重義はキリシタンの弾圧に積極的で、松倉重政の勧めに従い雲仙地獄で多数のキリシタンを葬ったと伝わります。
吉明府内に入るや、能く領民を撫育し、努めて神社佛閣の荒廢を修め、尚祭祀の典を興して、市塲の繁盛を期し、又溝渠を鑿ち、田園灌漑の便を圖る等、心を治民の術に用ゐるもの甚だ切なり。
豊国小志 第十二章 府内城主略伝より
竹中重義の死後、日根野吉明が府内に封じられました。
吉明は民の為に政治を行う名君でありましたが、跡取りなく断絶してしまいます。
1658年に吉明の義理の甥である松平忠昭が入城し、明治維新までその家系・大給松平氏が府内を居城とします。
四重の天守を持つ府内城でしたが、大火や空襲で多大な被害を受け殆どの建造物が焼失してしまいました。
江戸時代後期に再建された宗門櫓と人質櫓、堀や石垣などが遺構として残っています。
城跡の一部に県庁、市役所が建ち、大分県の中心として活用されています。
人柱お宮伝説とは?
度重なる水害で府内城の築城工事がなかなか進みませんでした。
そこで、『人柱になってくれる人がいたら、あなたの家族一生面倒見ます!』といったお触れを出したところ、『お宮』という娘が困窮する家族のために人柱になることを志願してきます。
彼女は弁財天の木像を抱いたまま人柱となり、この世を去りました。
その後、築城は難なく進み『お宮』は弁財天と共にここへ祀られたと伝わります。
説明板には美談っぽく書いてありましたけど普通に恐ろしい話ですね…。
おしまい!