鶴崎の歴史と乙津川の戦いを勝利に導いた妙林尼について【大分の旅】

鶴崎城

大分市にある鶴崎城は大野川と乙津川に挟まれた中州に位置し、北側は別府湾に面する天然の要害に築かれました。

古くから海上交易が盛んに行われ要所として発展。

鎌倉時代から戦国時代末期までは豊後国の大名・大友氏によって支配されました。

鶴崎の地は配下の吉岡氏に与えられ、鶴崎城が築城されたと云われています。

江戸時代に入ると初代熊本藩主の加藤清正に豊後国の鶴崎、佐賀関、野津原、久住が与えられ、鶴崎には鶴崎御茶屋と呼ばれる藩主の宿泊所(本陣)を建設しました。

鶴崎御茶屋は休憩所だけではなく、今でいう役場のような役割も果たしていたようです。

 

鶴崎城

加藤清正の跡を継いだ加藤忠広が1632年に改易になると、小倉藩から細川忠利が熊本藩に入封。

鶴崎はこれまで通り熊本藩によって支配され、爾來明治時代に至るまで細川氏の統治が続きます。

参勤交代の際には熊本から山越えし鶴崎に入り、そこから船で大阪へ向かいました。

いちのまる
いちのまる

写真は城跡の鶴崎小学校前にあった案内板(?)です。

幕末に活躍した勝海舟と坂本龍馬が長崎に向かう途中、鶴崎御茶屋に宿泊したことを記念して木板が設置されているのでしょう。

 

ざっくりではありますが、以上が鶴崎の歴史です。

最後に鶴崎城を語るに当たって外せないお方を紹介します。

 

乙津川の戦いについて

鶴崎城

1578年の耳川の合戦で薩摩国の島津義久に大敗した大友宗麟。

彼は滅亡の危機を脱するため織田信長、信長死後は豊臣秀吉に助けを求めました。

その後の島津氏の猛攻は凄まじく、1586年から1587年に起きた豊薩合戦で大友氏は多くの城を失っています。

1587年の戸次川合戦では豊臣秀吉の援軍(仙石秀久、長宗我部元親・信親、十河存保ら)が来たにも関わらず島津軍に大敗してしまいます。

戸次川合戦の勝利で勢いが止まらない島津軍は大友宗麟の居城・臼杵城や最重要拠点である府内館を攻撃します。

臼杵城は大友宗麟が大砲・国崩しで敵を翻弄し落城を免れますが、府内館は落城。風前の灯火です。

鶴崎城もこのときに攻撃されました。

城主の吉岡統増は臼杵城を守るため兵を引き連れ出陣、城に残されたのは統増の母と伝わる妙林尼と農民や女子供、老人ばかりだったそうです。

妙林尼は島津軍に屈することなく籠城し徹底抗戦を決めました。

 

鶴崎城

妙林尼は鶴崎城の周囲に堀や落とし穴を掘って守備を固めました。

島津軍は3000の兵を引き連れて鶴崎城に迫りますが、中々攻め落とすことが出来ません。

なんと、妙林尼は16回もの攻撃を防いだとされています。

島津軍は強攻を諦め計略を仕掛けます。妙林尼の家来に金銀を与えて降伏させる作戦です。

内から崩された鶴崎城は脆く、妙林尼は『これ以上の戦いは無益』と城を明け渡し降伏します。

それから暫くして豊臣秀吉が九州に大軍を派遣すると情報が入り、流石にヤバいと島津軍は撤退開始。

妙林尼は『一度裏切ってしまったのだから大友にはもういられない。』と自分を連行するように懇願し、出発前に島津軍と鶴崎勢で別れの大宴会を開きました。

出発当日、妙林尼は島津軍に少し送れるから先に向かって下さい。と伝言。

島津軍はゆっくりと撤退し始め、乙津川に差し掛かったそのとき!

松林に隠れていた大友軍の鉄砲隊が奇襲を仕掛け、集中放火を浴びた島津軍は多数の死傷者を出し壊滅してしまいました。

妙林尼は完全に従属したかのように見せかけ、大宴会を開き鉄砲隊を密かに配置し、騙し討ちを成功させたのです。

この戦いの活躍で妙林尼はその名を残しましたが、それ以外は殆ど何もわかっていないそうです。

以上が『乙津川の戦いについて』でした。

 

終わりに

鶴崎城

乙津川の戦いの戦死者は千人塚に合葬されました。

それからというものの、千人塚近辺では大火事や疫病流行などの不幸が多発したと云います。

困った住民たちは千人塚の上にお地蔵様を安置して供養祭を執り行いました。

以後、平穏になり住民は安心して過ごせるようになりました。

近年の区画整理で当地にあった墓地や無縁塔は移動されましたが、地元の方々の強い要望で地蔵尊だけはそのまま残っています。

おしまい!

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